4話 初めて楽器店に行く ①
長渕 剛が吹いていたハーモニカを買おうと決めた僕は、生まれて初めて楽器店の前にいた。いつもの漫画を描く仲間には内緒だった。ハーモニカは欲しかったものの、音楽に興味があるという勘違いをされると「女子にモテたいのか」と、からかわれると思ったからだ。
僕が住んでいたのは千葉の小さな街で、駅前には大きな楽器店があった。店の奥にはバンド用の練習スタジオが数部屋あり、まだ知らぬ「バンドマンという輩」がたむろしていた。いじめられる側にいた僕は、そんな彼らに接触しないよう、タイミングを見計らい店内へと入る。
初めて入るその空間は、他の店とは明らかに違っていた。誰の趣味なのか、明らかに迷惑な大音量で、店内全域に音楽が響き渡る。それが僕の最初の洗礼となった。
壁一面にエレキギターやアンプ類といった、見るからに高額そうな商品が所狭しと並んでいる。不測の事態から弁償を迫られる様を想像し、間違ってもそれらに触れないようにと気を配る僕は、さしずめイギリスのスパイ映画の007ような慎重な動き方で歩いていた。
来店者のひとりが、店内の大音量の音楽にも負けじと、耳をつんざくようなエレキギターの試し弾きしている音に度肝を抜かれながら、僕は勇気を出し、なんとかハーモニカ売り場を探し続けた。
かなり長い時間を探し回って、やっとレジのガラスケースに並ぶ大量のハーモニカを発見する。
さまざまなハーモニカが並んでいたけれど、見る限り、あの小さなハーモニカはなさそうだった。
「いらっしゃいませ、ハーモニカですか?」
すぐに店員さんが声を掛けて来る。漫画雑誌やプラモ以外の買い物に慣れていない僕は、こういう時のためにと、書き留めておいたメモを店員さんに見せた。しわくちゃの紙には『長渕 剛』と書いた文字。なかなか難しい漢字だったけれど、僕は間違いがないようにしっかりとエンピツで書いた。
この時に僕は自分の人生を大きく変える「単語」を耳にする。
「長渕?ああっ、『ブルースハープ』ですね」
なんだかよく聞き取れなかったけれど、それがハーモニカという言葉でないのは間違いなかった。
僕はすぐに否定した。「違います!!ハーモニカです。小さいやつです」
今度は店員さんが、すぐにこれを否定する。
「違いませんって。長渕が吹いているハーモニカが、『ブルースハープ』なんです」
このやりとりがしばらく続き「騙されまい」と食い下がる僕に、店員さんは奥の棚から楽器の入った小箱を出しながら説明する。
「わからないかなぁ、『ブルースハープ』っていうハーモニカなんですよ。ほら小さいでしょう?」
10cmくらいの小さな黒いプラスチックケースのロックをパチンと開く。
そこには、10個の穴が並ぶ黒のプラスチックを、銀色の金属ボディーがまるでサンドイッチのように挟み込んだ、小さなハーモニカが入っていた。想像していたよりさらに小さく、さすがに自分が持っているハーモニカとは似ても似つかない別のものだと分った。
さらに店員さんは、間髪入れず、僕を混乱させるような言葉を並べ続ける。
「えーと、メジャーボーイは、2500円ですね」
僕は、即座に聞き返した。
「何ボーイですって?さっき、長渕が吹いてるのは、ブルースなんとかって、言ったじゃないですか?」
店員さんは露骨に嫌な顔をする。(全く面倒な事になった)とでも言わんばかりに。
長渕剛が吹くハーモニカは「テンホールズハーモニカ」と呼ばれる楽器だった。
これに対して店員さんが言った「ブルースハープ」とは、同じテンホールズハーモニカではあるものの、ドイツの楽器メーカー「ホーナー社」のテンホールズハーモニカの人気機種の商品名だった。
一方、長渕 剛が実際に使っているのは日本の企業「トンボ楽器」のテンホールズハーモニカで、その機種名を「メジャーボーイ」と言う。ややこしいけれど、つまりこの店員さんから勧められた商品は、ぴったり合っていた訳だ。
ハーモニカが自動車ならテンホールズは軽自動車だ。ブルースハープがワーゲンなら、メジャーボーイは鈴木自動車のアルト辺り、といったところだろうか。この言葉の棲み分けも、その後僕が混乱し続ける原因にもなる。なんにしてもそんな事を、いきなり分かれという方が無理な話だ。
僕はなだめられつつも、財布の中に2500円以上はあるのを確認する。中学2年だった僕の月の小遣いのぴったり全額で、漫画に使うスクリーントーンなら4枚、さらにチューインガムが2つも買えるほどの大金だ。モタモタと、いつまでもレジ前で金を出しぶる僕に、さらに店員さんはトドメの一言を吐いた。
「ところでKey(キー)は、どうされます?」
僕はいよいよ混乱が隠せなくなって行く。
「きぃ?きぃって、なんですか?」
店員さんは眉をひそめ、やや上から目線の質問を続ける。
「Keyですよ。何にします?ハーモニカのKeyは。何かの曲に合わせるんでしょ?」
僕は何がなんだかわからなかった。
(曲ってなんだ。僕がいつ音楽の話なんかしたよ!!音楽が好きなのはあなただろう。こんなお店で働いてるんだから!!僕は音楽になんか興味はないよ!!漫画を描いているんだから!!小さなハーモニカを買いたいんだよ!!)
テレビで見た小さなハーモニカの「ポワ~ン」という音が出したくて、それを買いに来ただけだったのに。初めて行った楽器店は、無知な僕を次々に追い込んで行くのだった。
つづく
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