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9話 ハーモニカ・ホルダー

日々が過ぎ、想定外の物を買ってしまったという落ち込みからようやく抜け出せた僕は、GとEmのテンホールズハーモニカを並べて、吹き比べを楽しめるまでに回復していた。
相変わらず曲を吹いてみようなどとは思いもせず、それぞれの音色が「低くて楽しげ」「高くて悲しげ」という違いだけの「オモシロ笛」くらいにしか考えていなかった。
ただ、吹いていると自分の気分の明暗が明らかに違って来る事が、ハーモニカの特殊な機能のように思えて、この2本の使い分けで「何かの役に立てられないのか」を考え続けていた。

しばらくして、店員さんがつけてくれた「オマケの事」を思い出す。
まだ店のビニールから出してもおらず、チラシやレシートなども入りっぱなしだった。
「お~っ。これだこれだ。え~と、一体これは、何なんだろう?」
それは見れば見るほど謎の金具だった。

安っぽい硬めのハリガネのような金属製で、コの字型にボルトで止められ、両端にバネがついていた。
ビニールのパッケージには台紙がついており、裏にはハーモニカの取り付け方が描かれている。どうやら首から下げると「手放しでもハーモニカが吹ける」という事のようだ。
「ふ~ん、便利グッズみたいなもんだな。おもしろ~」
僕はそのアイデアのくだらなさに、少々興味が湧いた。

後で知るのだけれど、この金具を「ハーモニカ・ホルダー」という。僕が適当に返事をしたせいで、店員さんは僕がギターを弾きながらハーモニカを吹く「弾き語り」の演奏が目的なのだと思い、このハーモニカ・ホルダーをオマケにつけてくれたのだ。

僕はいつになく暇だったので、取り付け図を見ながらハーモニカ・ホルダーに小さなGのKeyのテンホールズハーモニカをセットし、首から下げて、そのまま吹いてみた。
両肩に押し当てられる金属のエッジが刺さり少しばかり痛いけれど、確かに手を使わないでもハーモニカを吹く事ができた。

すぐに鏡の前に立ち、首からハーモニカを下げたその様子を確認する。パッと見には、なんだか歯の矯正器具を思わせる。
そのままポケットに両手を入れハーモニカを「ボォー」と吹いてみると、なんだか不良っぽくて格好いいような気がしてくる。ワルの口笛のようなイメージから来るのだろうか。

今度は勉強机につき、漫画のキャラクターを描きながらハーモニカ・ホルダー越しにハーモニカを吹いてみた。そう邪魔にもならず、簡単に両方を同時並行する事ができた。確かにこれなら、僕のようなながら族の「ながら吹き」にはもって来いだった。
暇に任せて、いろいろなアイデアを試して行く。麦茶を飲んだり、お菓子を食べながら吹いてみたり、横になりテレビを見ながらでさえ、やや苦しいもののハーモニカを吹く事ができた。
どうでもいい事を試しながらも、それは「ポワ~ン」というあの音を出すよりは遥かに実現性があり、心踊るものがあった。

そこで僕は「腕立て伏せをしながらでもハーモニカが吹けないか」に挑戦してみたくなった。
運動は得意ではないものの、腕力にはそれなりに自信があった。
荷物をどかし床を広げ、首にハーモニカ・ホルダーを下げ直し、両手を広げる。軽く数回、普通に腕立て伏せをしてから、いよいよ音を出しいぇみる。

「ボゥオワ~ン」と、なんとも間の抜けた音が響く。
僕はその音のおかしさにプッと笑い出し、ヘナヘナとそのままへたり込んでしまった。
直後に強烈な痛みが僕を襲う。

僕は跳ねるように飛び起き、顔をゴシゴシとこすり上げ、その痛みを1秒でも早く和らげようと必死になった。
口に少しずつ血の味が広がって来て、遅れて恐怖感がやってくる。
恐る恐る鏡をのぞき、その傷が鼻からのもので、唇や歯自体は大丈夫だと解ると、ようやく安心した。後は痛みに耐えればよいだけだ。

どうやらへたり込んだ時に、ハーモニカをくわえたまま床に顔をぶつけ、口からは運良く外れたものの、見事に鼻を押し上げ、鼻血を出したという事らしい。僕はこんなしょうもないことであやうく総入れ歯になるところだったのだ。

床にしたたる鼻血を拭きながら、痛みと恐怖から来る鼓動の高まりが収まって来る頃、僕は改めて自分の小さなテンホールズハーモニカが取り付けられたハーモニカホルダーを見た。それは今や、恐ろしい凶器にしか見えなかった。

僕はこの忌まわしいハーモニカ・ホルダーから大切なGのハーモニカを取り外し、両者を引き離して床に置いた。そして台紙にある使用上の注意の「説明図以外の使い方をしないでください」という文言を読んだところで、この恐怖の金具だけを引き出しの奥にしまい込んだ。そう、永遠に。

楽器には時として、この身を傷つけるほど危険な物が存在する。
僕は誰もがするように「ハーモニカで曲などを練習する」という当たり前の事を考えてもみず、次々にオリジナリティーあふれる愚かな失敗を重ねて行くのだった。

つづく


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