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126話 そしてようやく②

一体何が起こったのかわからない僕は、数人が出て行ったドアの方を、いつまでもぼんやりと眺めていた。自分も似たような店で働いているのだ。自分が働く店のセッションデーで同じような事が起きれば、それは大ごとのはずなのだから。

「えーと、ブルースハープの方?初めてですよね、このセッション?」
僕は話し掛けられてようやく我に返った。気がつけばやや離れた所からセッションのホストバンドのメンバーらしい「黒ズクメ」が、参加者が記入するノートをパラパラとめくりながら話し掛けて来ていた。新参者の僕は慌てて席から半分立ち上がり軽く会釈をするも、黒ズクメはサッと手をかざし(結構です)と言わんばかりにそれを遮った。その仕草もなんだか気取っていて、すでにこの段階で、僕にはいけ好かない感じの奴に思えて、必死に笑顔を作って言葉を返した。
「広瀬っていいます。あの、本当に、ビギナーなんで、よろしくお願いします」
僕がそう言い終わるやいなや、挨拶を返すでもなく、当たり前のように言い放った。
「えーと、楽譜、無いよね?だね?」
半笑いをしつつも、目にはほのかに怒りが宿っているようだった。僕は驚きつつも即答する。
「ええ、楽譜は、無いですね。読めないですし」
すると間髪入れず、「あ、持ってないんじゃないんじゃなくて読めないんだ。え?なんで?義務教育だよね?って言っても仕方がないか。読めないんだもんね。はいはい」と、まるで言い慣れているかのように言葉を連ね、また視線を参加者用ノートの方に移した。

一方的な物言いをされたけれど、これでもう会話は終わったのだろうか。僕は言われっぱなしのまま、後は次に何かを言われるのを待っていなければいけないのだろうか。初対面でこの態度。もちろん僕はカチンと来ていた。頭はフル回転で、鼻息は情けないほど乱れ始めていた。
(はいはいって、なんだよ。楽譜が読めるからって、どうだっていうんだよ。なんだこいつ、全然バンドマンっぽくないぞ。楽譜なんか読めなくたって、演奏はできるじゃんかさ。なんだこいつ、音楽の先生とかなのかよ!?)
数秒と間を空けず、視線はノートのまま、黒ズクメは話を続けた。
「ブルースハープって、あれだよね、フォークソングみたいなのを演る楽器だよね?そうですか~、そうかそうか~、そういうのね~。はいはい」
それは見るからに小馬鹿にした物言いで、今までにも言われた事のある「テンホールズハーモニカは楽器ではない」という考え方から来る見下し方だった。オマケに相手はそれを言うだけ言って、こちらの言葉など聞く気はさらさらないのだ。さすがに腹立ちで、僕はフルフルとふるえながらも、なんとか平常心を保つよう努力して言葉を返した。
「あの、ブルースセッション経験者歓迎って、書いてあったんですけど。あの、ブルースなら、ある程度やって来たんですけど」
僕には渾身の言葉だった。僕はブルースを真剣に演って来たのだ。ルーズで、小難しい事は全然必要のない分野ではあるけれど、そこには楽譜なんて入り込む必要などない、自分の感覚だけが頼りの、抜き差しならない世界がある。そこではテンホールズハーモニカはサックスやトランペットなどを凌ぐほどの最大の武器となるのだ。確かに、フォークソングのようにギターの片手間に吹いているのばかりを見ていれば、簡単そうに見えるのかもしれないけれど、そんな物言いをされるほどチンケな存在では決して無いはずだ。

けれど黒ズクメは僕の言葉にちゅうちょする事なく、半笑いの表情を浮かべ、また同じように間髪入れず言葉を返して来た。
「あ~、あれか?チラシのやつね?ブルースセッション経験者ってやつね。関係ないよ。違うからさ、全然ね」
もはや半分吹き出すような笑い混じりで言葉を並べ続ける。
「ブルースってあれだよね、3コードとかで、グルグルやるやつだろ?ねっ?そうだよね?いやぁ~、ここの店長さんが、なんだかブルースのライブとかも観るような人でさ。ちょこっと尊敬してるようなとこがあるんだよ。困るんだよね、そういうの書かれちゃうとさ。まぁ、そういう人もたまには来るよ。ブルースを演って来ましたよってね。まぁ、でもねぇ~、違うんだよねぇ~全然、ジャズとはさぁ~。まぁ最近だと、人前で演奏した事がないとか、たまにマイクも使った事がないとかいう人まで来ちゃうからね。なんにも経験が無いよりはいいのかもしれないけどね」
僕は完全にトサカに来ていた。こんな不快なやつと1秒でも関わるのは御免だと思っていたくらいだ。けれど、このまま言われっぱなしで帰るのは嫌だった。おそらくこの黒ズクメはブルースという音楽をちゃんと聴いた事が無いのだろうし、ブルース特有のセカンドポジション奏法でギンギンに鳴らした分厚いブルースハープのブローをぶちかましてやれば、この高圧的な態度を少しは改めるだろうとも思った。

僕は完全に戦闘体制に入りつつも、次の黒ズクメの言葉で沈黙をするしか無くなった。
「で、どうします?今日。演りますか?ジャズ」
この言葉で、一瞬にして血の気が引いた。そうだった。頭に血が上り忘れるところだった。今日はジャズセッションデーなのだ。今からハーモニカで音を出すのは、慣れたブルースではなくジャズという全く知らない分野でなのだ。しかもそれなりに参加者も入っている状況での、逃げられないぶっつけ本番だ。黒ズクメは焦る僕を知ってか知らずか、お構いなしに次々に言葉を連ねて追い込んで来る。
「あなた、楽譜読めないんですよね?なら、どうしましょうかね?そういう方が他にもいれば、また後で考えますがね。とりあえず、自分のできそうな曲だけでも、3~4曲決めてもらえますかね。状況見て、どこかのセットに混ぜますんで」
この段階で、僕は完全に縮み上がってしまっていた。これでは浮き輪なしでいきなり嵐の海に投げ出されたようなものではないか。腹は立てど、先立つ技術が無ければどうにもできない。できそうな曲名と言われたところで、知っている曲自体がほとんど無い訳だし、さすがにブルースみたいに「最初にKeyだけ教えてもらえれば、あとは適当に合わせますんで」なんて言えるはずもない。今までCDで全く合わせられなかったものが、急に人前の生演奏でできるはずがない。

僕はしばらくは押し黙ってしまったままだったけれど、なんとか知っている曲名をと頑張ってみる。
「あのぅ、『ルート66』みたいな曲なら、なんとか」
結局、最初にノートに書いた1曲しか思いつかなかった。それを聞いた黒ズクメは、さらに笑い混じりになる。
「う~ん、『ルート~』はねぇ~、よっぽど知らない人用にとっておきたいんだよね~。最後ぐらいにさ。居酒屋のカラオケ客みたいな人もたまに来るんでね~。でも、それだけじゃ、ちょっと嫌でしょう?あなたみたいな人なんかは。で、『ルート~』だけ演って、後のセッションは全部見学って訳にもいかないでしょうに?でも、そうします?そんなでもいいですかね?こちらは構いませんが」
そう言い、チラリとこちらを見やる表情、さらにこの「あなたみたいな人」という言葉からして、僕はすでに「今日の問題児」として扱われているらしい。それに唯一できるジャズナンバーの「ルート66」を「居酒屋のカラオケ客みたいな人用にする」という段階で、それ以外のセッションナンバーはかなり難解な曲であるのは間違いないだろう。とんでもない事になってしまったようだ。正直、ここまでの屈辱は想定外だった。とはいえ、ここで僕が引けば、もはやそれは公衆の面前で土下座をさせられたようなものではないか。いや、それどころか、この黒ズクメは僕が楽譜が読めないというだけで、ブルースという音楽ごとブルースハープという楽器をバカにしているのだ。ここで、引く訳には絶対に行かない。言葉が出て来ない僕を、黒ズクメはニヤけた顔のままいつまでも待ち続けていた。

そして、(うんっ!そうだよ!やってやるさ!)っと、荒れ狂う海で溺れる覚悟で泳いでみるかと、僕が腹をくくった頃だった。そこに、たまたま運良く小綺麗な巡視船が通り掛かってくれたような出来事が起こった。
「あれ?広瀬さん?そうですよね?いやぁ、さすがですね。今度はジャズですか?」
それは、かつてどこかの店で何度か顔を合わせた程度の、いろいろな店のブルースセッションイベントに顔を出している常連のアマチュアギタリストだった。名前も知らず、その印象もぼんやりとしたものだった。もちろん僕の働く店にも来てくれた事があるので、僕を知っていたのだろう。急に店員としての自分が顔を出し、僕はなんとか笑顔を作って話を合わせた。
「ああ、お久しぶりです。いやぁ、勉強ですって、勉強。ジャズは全然わからないので」

この店のセッションの常連なのか、黒ズクメの方はこの男性を知っているようだった。この状況で渡りに船とばかりに、この男性にいきなり僕を放り投げた。
「そうですか、それは良かった、なら一緒にお願いしますよ。知り合いなんでしょう?面倒見てあげて下さいよ。ねぇ?」
するとそのギタリストは「おそれ多い」といった物言いで、僕を持ち上げ始め、フォローをするような話をし始めた。僕がいろいろなジャンルを演奏している事や、おそらくはジャズも吹けるであろう事。ライブ活動を幅広く行っており、ある程度は名前も売れ始めているはずとまで言い出したのだった。最後のはかなり無理がある「持ち上げ話」ではあるものの、この状況にあっては誠にありがたいフォローの数々だった。

この話の流れから、黒ズクメは僕の面倒をこのギタリストに任せ、スタンダード楽譜集の中から「ブルースハープでも吹けそうなもの」を選び、2人セットで参加するように言うと、ちょうどそのタイミングで声を掛けられた別の参加者からの楽譜を、また忙しくチェックし始めた。それはまるで現場監督が次々に面倒な作業をさせられているような感じで、常に攻撃的な物言いが続き、とてもではないけれど、およそ今から同じ場所で楽しいセッション演奏が始まろうとは思えない雰囲気だった。

それをあっけにとられ見ていた僕は、後ろから掛けられた声でようやく我に返った。後ろに僕らの会話が終わるのをひたすら待っていた女性の店員さんがいたのだ。そこで参加者の「最低注文ルール」として、すでに注文していたコーヒー以外にワンフードを注文する義務を説明された。ここでまた店員としての自分が顔を出し、客として嫌われないようにと笑顔で食べたくもないお菓子のチョコポッキーを追加で頼んだ。それが最も安かったからだ。これも仕方が無いのだけれど、厳密に言えばチラシにも先ほど読んでいたメニューにも書いていなかった注文義務で、いきなり言われた事だった。全く、腹立たしい。今日は何から何までいきなりづくしではないか。

この助けてくれたギタリストの方も、車で来たのか、僕と同じく酒を飲めないようで、セッションで一緒になるならと僕との相席を希望し、同じような注文をすると、気まずさからなのかしばらくはどうでもいいようなポッキーの話題を続け、それこそ必死で場を和ませてくれた。僕はとりあえずの一息とばかりにこのどうでもいい話題で会話をつなげ、怒りを収めながら少しずつ冷静になって行った。

やがて僕は平静に戻り、改めて心細い店の中で、本当にありがたい存在に出会えたものだと感謝した。そのタイミングで、先ほど出て行った数名が紙の束を折れないよう大事そうに両手に抱え、おのおの元の席へと戻って行くのが見えた。ある女性は走って来た事での苦しげな呼吸を隠すよう、ハンカチを口に当てながら、場の空気を必死で守ろうをしているようだ。ちらりとのぞくそれは、先ほどの手書きの楽譜の束だった。数枚のコピーがされていたのだ。気がつけば、なんと相席のギタリストも、楽譜の束を机に広げているではないか。

僕はこの時初めて知る事になった。
ジャズセッションは楽譜が必要なだけではなく、どうやらセッションをするメンバーの人数分のコピーが必要なのだという事を。

つづく

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