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106話 僕のクロスロード②

僕が初めて転職をした日から、早いもので数ヶ月が過ぎていた。どこでも「住めば都」とはよく言ったもので、僕は、もうすっかり次の職場にも、そこでの仕事にも慣れていた。
そこは10人もいない小さな会社で、オリジナル製品のメーカーではあるものの、問屋としての機能がメインだった。仕入れた商品が絶えず大きなカートンで入荷しては、中くらいの別のカートンに雑多な商品との詰め合わせで入れ替えられ、慌ただしく出荷されて行く。それが僕の目の前の、いつもの光景になっていた。

僕の仕事はオリジナル商品の企画開発で、前の仕事とそう代わり映えしないような感じではあるものの、企画の規模は比べ物にならないほど小さいものになっていた。
社長から、外部へ新製品の見積もりを依頼する時の最低生産数を指示された時は、2桁ほど条件が変わってしまうため、仕事のスケールの違いに正直とまどいを隠せなかったほどだ。
当然研究費なんてものも無く、商品を出したら同時に原価分の回収を考えなければいけないシビアさが、常に背中合わせの業務だった。

最初の頃は、心機一転、(これからまた本腰を入れて頑張ろう!)と思って張り切っていた。けれどそれもつかの間、この2軒目の会社も、そうのんびりと構えていられなそうな雰囲気になって行った。
働いてみると、本当にとりあえずの臨時雇いのような扱いで、入社から数ヶ月の間、まるで社長の期待に応えられるような仕事が出来ない僕は、徐々に関係が気まずくなって行った。人材を育てられる余裕があるのは大手だけだ。小さい企業には、様々な意味で即戦力の精鋭だけが必要で、結局僕なんかは大手企業の温室育ちのポンコツだったのだ。

そんな事から、早々に次の仕事を見つけておかなければならなそうな気配を感じ取り、今回も辞める少し前から就職活動を始める事になってしまう。前回同様、学歴がない以上はせめて失業期間ぐらいは無い事を目指すしかなかった。
とはいえ、相変わらずの不景気で、なおさらに求人などありはしなかった。
今回は、一応、初めての職安にも行ってみるものの、気持ち悪くなるほどの人混みで、その迫力に押されて、結局途中で帰って来てしまったほどだった。

そうこうしている内に、また数ヶ月前にしたように、以前のお得意先の社長さん達へ「どこか求人はありませんかね?」と相談の連絡をして回るはめになった。
すると、ある会社で「自分の会社でなら雇ってもいい」との、奇跡的な話をもらう事ができた。
追い詰められていた僕は大して考えもせず、その電話の段階で、2つ返事にその会社への転職を決め、早々に返事までしてしまったのだ。

こうして、あっさりと決めてしまったこの2度目のクロスロードだけれど、僕にとってかなり特殊な岐路となった。その職場は東京・千葉を離れ、数回くらいしか行った事のない、遥か離れた愛知県にある会社だったからだ。
もちろんもともと愛知県への転職を考えていた訳ではなく、東京に数多くのルートを持っている会社だと知っていたので、東京の企業への紹介を当て込んでの相談ではあった。まさか、自社の社員として考えてくれるとは、かなり予想外の話の流れではあった。

その会社は地場産業を軸とした陶磁器のメーカーだった。と言っても陶芸家になる訳でも食器屋になる訳でもなかった。もともと陶磁器はおもちゃに近いような雑貨の商品展開もさかんで、僕がおもちゃ会社にいた頃にも、数点は陶磁器の商品を手掛けた事があった。
特にプラスチックに比べ量産時の型代が低額なため、ノベルティー(記念品)の需要が多く、常に新しいアイデアやデザインが必要となるため、僕のような商品企画の仕事が何より重要でもあった。

そうなると、当然僕は愛知県に引っ越す事になる訳だ。せっかく借りたばかりの安アパートも、礼金をただ無駄に払ったようなものだった。
まぁ、正直そこはどうでも良い点ではあった。まだ貯金もあったし、所詮は損得の話、自分で決めた転職なので、誰に迷惑を掛ける訳でもないのだから。
けれど、この「タイミング」の面だけは、最悪中の最悪ではあった。
実は、僕にとって人生を大きく左右する劇的な展開を迎えていた時期でもあったからだ。
僕はある女性との結婚を、いきなり決めたばかりだったのだ。

相手は小学校の頃の同級生で、大学は山形へと進学したのだけれど、同窓会で再会し、すぐに遠距離恋愛で付き合い始めた。お互いになかなか会えない焦りも重なり、かなり短い交際期間で、早々に結婚を決めたのだった。
けれど間が悪い事に、その結婚を決めたタイミングで、考えも無しに3つ目の会社に転職を決めてしまった僕は、一時的にでも住所不定、無職となってしまった。さらに、数回しか行った事のない地域へ引っ越し、そこで初めての仕事に着く事になったのだ。

あまりに焦っていたとはいえ、そんな安易に人生を左右するほどの判断を勝手に決めた僕を、結婚を決めたばかりの彼女はどう思うのだろうか。結婚を決めた相手に転職の相談をするどころか、すでに遠方の転職先に、返事までしてしまったのだ。
ところが、これが意外にも、彼女の方はすんなり僕の愛知県行きに賛成をしてくれたのだった。

彼女は大学へ通った山形での田舎暮らしの経験から、とにかくもう都会には住みたくないという事だけは、密かに決めていたようなのだ。むしろ僕さえ良ければ、できるだけ地方に暮らして欲しいと思っていたらしく、ひょっとしたら彼女の住んでいた山形の方に移り住むという選択肢もあった訳だ。20代という若さもあるけれど、あまりにも安易な発想の2人ではあった。
一方、陶磁器の会社の方も僕らの結婚と同時の転居に理解を示してくれて、しばらくはなにかと大変だろうからと、管理人を兼ねるという名目で、山奥に建つ工業地帯にある会社の古い倉庫に、無料で住まわせてくれるという事を申し出てくれた。驚いた事に電気代や水道代も持ってくれると言うのだから、かつての社員寮のような好条件ではないか。

こうして僕らは、この愛知県の山小屋の倉庫で、勢いだけの新生活をスタートさせる。
実際に住むには問題だらけの物件ではあったけれど、外食や銭湯なども利用し、新鮮で楽しい毎日だった。
その間に浮いた家賃分を全て貯金に回し、数カ月後、交通のアクセスも良かった隣の岐阜県にちょうど良い新居を見つけ、そこで改めて、落ち着いて新婚生活をスタートさせる事ができた。
残念ながら、式こそ挙げられなかったけれど、役所に結婚の届けを出し、僕らは記念の沖縄旅行に行き、僕の方の「広瀬の姓」で、正式に夫婦となった。
やがてかみさんの方も地元での仕事が決まり、少しずつ生活に余裕が生まれて来ると、安心して、しばらくは休みのたび、岐阜県の豊かな自然環境を満喫して回った。地域的に車移動中心の生活になった事もあり、山に川にと、地元の人にも驚かれるほど、有名な観光地をどこまでも、それこそ朝から晩まで走り回った。
かみさんは本当に自然環境が好きな人なので、滝や洞窟などを調べては、長距離ドライブへと僕を連れ回した。僕の方はインドア派で、彼女との出会いが無ければドライブにすら興味が無いくらいだったので、絶えず新鮮な驚きの連続だった。

東京の方から、かつての同僚や友人が遊びに来てくれた事もあった。誰もが都会を離れたI(アイ)ターンに興味津々だったけれど、僕ら夫婦の住まいがあまり都会とは変わらず、当てが外れたようで、少々つまらなそうだった。
それは僕らが撮る記念写真がいつも風光明媚な自然環境をバックにしていたためで、僕らが大自然の中で暮らしているような誤解をさせていたのだ。
「駅で広瀬の名前を出せば、駅員が家を教えてくれるんだろう?」だの「毎日ご近所さんから産みたての鶏の卵をもらえるんだろう?」だのと非常識な事を言われた時は、あまりの都会人のステレオタイプな発想に度肝を抜かれた。まぁ、そうは言っても、友達が同じようなIターンをしていたら、僕だってそんな風に想像していたのかもしれない。
友人達からは、おおむね自然に恵まれた生活環境を羨ましがられ、僕らは改めてIターンの成功を実感していた。最初の頃はもろもろ大変ではあったけれど、僕ら夫婦の思い切った転居は、本当に良い流れだったのだ。

とはいうものの、生活が落ち着いて来るとともに、僕には決定的な何かが欠けている感覚があった。それは、もう長い間、ハーモニカを吹いていない事だった。
やはり、ある程度生活条件が揃わなければ吹く気になれないというのは、僕は真の音楽人ではないという証なのだろう。

ある日、僕は久しぶりにハーモニカを取り出して、また以前のように、演奏のあてもない練習を再開した。
最初はハーモニカの口当たりや匂いにまで違和感があった。好きな事でも一旦辞めてしまったものを再開するのは、なかなか大変だ。
久しぶりに出すハーモニカの音は少々鳴りが悪く、本調子に戻せるまでしばらく掛かかりそうだった。
無理矢理にでも続けた練習で、やがて、かつての勘が戻って来たのを感じた僕は、今度は情報誌で調べた地元のライブハウスにでも行ってみようかと考えた。もはや仕事にも完全に慣れ「衣食住」が整ったのだから、堂々と娯楽を取り戻せる身分という訳だ。

まださして土地勘も無いのだけれど、愛知の「栄(さかえ)」というところは東京で言えば渋谷のような繁華街という事を知る。大中小、多くのライブスポットが並び、地域色豊かなバンドが毎晩のように腕を競っているのがわかり、僕は時間を見つけては足しげくまわり始めた。
その内の一軒に出演していた地元のブルースバンドと知り合った僕は、すぐに自分のハーモニカの腕前を披露し、メンバーとして定期的にライブに参加して欲しいと誘われる。まさに渡りに船といった状況だった。
ライブでの僕のハーモニカ演奏は、お客さん達への評判も良く、地域的なハーモニカ人口の少なさも重なって、次々に他のミュージシャンへの紹介へとつながって行った。
あれよあれよという間に、いくつものバンドのサポートメンバーを掛け持ちするほどの状況になり、東京で動いていた頃よりも遥かに、本格的なライブ活動を開始する事になったのだった。

さらにこの地域は意外なほど喫茶店文化が根強く、小セットであれば気軽に演奏させてもらえるような店も多数あった。
そうなるとハーモニカのような楽器が活躍できるような「カフェ・ライブ」にも向いていたし、モーニング文化が定着しているため、どの店もしっかり常連さんはついているので、チケットなどを売らずとも集客ができ、少額ではあれ必ずギャラの分配も見込めていた。
僕は実に自然に、ハーモニカの「セミプロ」として、東京にいた頃より一段階上の活動をできるようになって行った。
かみさんも僕の演奏活動を快く受け止めてくれて、まだファンなどのいない僕の唯一のお客さんとして、よくイベント会場の客席にいてくれた。

愛知での僕の仕事には特に残業や休日出勤なども無かったので、いつも定時で上がり、毎日のように十分にハーモニカの練習を続ける事ができた。それに、共働きだったので外食の機会も多く、そのついでに色々な地元のライブスポットにも行ってみた。
お店のスタッフさんなんかとも積極的に話をし、音楽情報も集め、セッションイベントなどがあればとにかく飛び込んでもみた。
自分なりに真剣に演奏活動をして行く内に、ハーモニカの演奏レベルも目に見えて上がって行き、バンドマン同士の紹介に次ぐ紹介で、全体的に組む相手の演奏レベルも上がって行った。
すると自然に、出演する店の方から、プロでやって来た人や、それなりに実績や立場がある人を紹介されるまでになって行く。
僕はハーモニカという特殊な楽器なので、アマチュア同士で動いている間は、「広瀬君はプロのミュージシャンだよね」というくらいの高評価の中で心地良く動いていたのだけれど、プロが相手となると「ハーモニカ以外は、何かできるのか?」と、かなり辛口の対応で威嚇される事もあった。
もちろんプロを目指す気などは無かった僕は、一旦は逃げ腰にはなるのだけれど、地域的にもなかなかいない楽器の奏者という事で、結果、おおよそ良いポジションを用意してくれる事になり、気軽にライブイベントなどに誘ってもらえる流れにつながって行った。

最初は右も左も分からなかった地域での暮らしだったけれど、東京よりも何もかも上手く行く、僕はそう安易に思っていた。

つづく


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