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「熟慮のメディア」としてのSNS

先日の兵庫県知事選を受けて、日経新聞がSNSと民主主義のゆくえについて論じている。

いろいろとツッコミたくなるような箇所があったので、何点か簡単にコメントしていきたい。

SNSは人の反射神経を刺激するメディアだ。(…)上手に使えば大事な政治的テーマに人々の目や耳を集める役に立つだろう。ただ、SNSの「反射」と、政治で重要な「熟慮」には距離がある現実を忘れてはまずい。

大きな「力」成熟への起点に(日経)

SNSはアテンションエコノミーの最たるものであり、人々はそこでキャッチーなコンテンツに容易に引きずられる。民主主義にとって重要な「熟慮」が蔑ろにされるおそれがある。そんな懸念をこの一節は表明しているわけだが、この手の批判は、個人的に妥当性が低いように感じる。理由は二点。

  1. こういう批判が妥当性をもつためには、伝統的な主流メディアがその「熟慮」の場を十分に提供できていることが前提になるが、果たしてできていただろうか? むしろそれが不十分だったから人々はSNSに向かったのではないか?

  2. そもそも「SNS=反射のメディア」との位置づけは妥当なのか。むしろ、SNSこそ「熟慮」のメディアとなっている側面が否定し難いのではないか。ReHacQ、Pivot、NewsPicks、ゲンロン、ポリタスなど見応えのある有力コンテンツ群。中小どころまで含めるとさらにその厚みは増す。また、ポッドキャストなど凖SNS的なメディアの中にも、熟慮を促す良質なコンテンツが山ほどある。

もちろん、今回の兵庫県知事選の熱狂は、条件反射的なSNSの悪い側面が出ていると言えるかもしれない。いわゆるポピュリズム現象。しかし、ポピュリズムは何もSNS始まって以来のものではなく、それ以前からあるものだ。青島幸男も田中康夫も小泉純一郎もSNSなしでフィーバーを起こすことができた。

熟慮の重要性をいくら説いても、時々の政局によってはポピュリズムを完全に食い止めることは難しいし、SNS以前からそもそもそんなことはできていなかった。

しかし、反射や熱狂というのは永遠には続かないもので、興奮が冷めた頃に、やがて人々はクールでスローなメディアに目を向ける。人々が浮かれ騒いでいるときも淡々と対象を深掘りしてきたメディアやコンテンツに、目を向け出すのだ。もちろん、熱狂の最中でもそうしたコンテンツは思われている以上にちゃんと視聴されている肌感覚はあるのだが。

かつては、たしかに、その役割は新聞や雑誌が担ってきた。しかし今日では、SNSでも十分にその役割が担えるようになりつつある。

SNSは、単に「反射」のメディアではなく、それに飽きた後も探せば「熟慮」系の良質なコンテンツがいくらでも見つかるメディアに成長したわけだ。

そこからいくと、日経の見解は「まだそこ?」と首を傾げざるを得ないものだ。記事は最後に「SNSを冷静な対話、深い議論につなげていく知恵を探そう。ひるまず取り組むべき出発点に私たちはいる」として締めくくっているのだが、これでは、SNSのメディアとしての奥行きに対する解像度が低すぎるのではなかろうか。SNSに「熱狂」「浅い」というフレーズをつけて勝ち誇ったような気になれる時代はもう終わった。今回の選挙は、出発点ではなく、SNSが熟慮のメディアとしても成長してきたその結果である。

日経に限らず、テレビ・新聞は今回のSNS躍進を受けて、軒並み「課題」や「反省」といったニュアンスで今後の展望を語っているように見受けられるのだが、そういうことを今になって言い出すというのはかなり遅れていると思う。今後は、そうやって課題のための課題、反省のための反省を独り言のように語ってメディアとしての衰退を早めていく公算が高いだろう。


石丸、玉木、斎藤、さらにはトランプ再選とくると、大手メディアとしても、SNSを「反射神経」のメディアと矮小化して軽蔑したくなる気持ちはわからないでもない。彼らは、「我々もこれを受けて報道のあり方を見直さなければならない」「重い課題が突きつけられた」と今後も言い続けるだろうが、そういう「反省のための反省」を繰り返しているうちに、どんどん主流メディアは没落していくだろう。テレビは残るかもしれない、と個人的には思う。ファスト(で下世話)なメディアとして、大衆を動員する力は決定的には落ちないだろう。だが新聞は厳しい。上でも述べてきたように、新聞が担ってきた「熟慮」の機能は、すでにかなりSNSの方に代替されているからだ。

SNSは発信者と受信者を媒介なしに結びつける。新聞は、受信者が媒介者(新聞社)のおまんまを食わせることではじめて発信者へのアクセスを可能にする。つまりサービスとして「割高」である。現代社会で、受信者と発信者の間に入る意義を新聞社などメディアが探るとすれば、それはどうしても「自分では判断できない人もいるから」というパターナリズムに帰着する。権威主義や場合によっては全体主義を体現する存在となる。だからますます民衆にはメディアが既得権益にしか見えなくなる。

もう、そういう時代の流れである。SNS躍進に対するメディア(やリベラル)の阿鼻叫喚は、19世紀のラッダイト運動における労働者の訴えのようなものかもしれない。「資本家が機械を使って我々を用無しにする!機械をぶっ壊せ!」が、そのまま「イーロン・マスクが悪い!SNSの偽情報を規制せよ!」という話に再現されているというわけだ。とはいえ、没落は決して消滅を意味しない。新聞や場合によってはテレビは、50年後にはカルト宗教団体か伝統福祉産業として、なんだかんだしぶとく生き残っているのではないか。「紙の新聞ってなんかいいよね」という妙なフェチシズムを媒介に、謎の「職人意識」も賦活され、国もそういうのを「伝統文化」としていちおう保護し、あるいは現実を遊離した終末論を唱えて人々の不安を煽り、お布施や献金に依存してしたたかに生き延びる・・・。

もっとも、こんなことを書きながら、いまだに新聞を毎日読んでいる自分が一番の異常者なのかもしれない。泣ける。

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