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仕事を辞めて利賀村という演劇コンクールに参加した際の動画。

利賀村の演劇コンクールというのがあって、演劇関係者の中でもあまり認知されていないけど国外では割と認知があるそれに、若い頃にねえ、もうほんとに演劇で気が違っていて、演出家がやると言ったら仕事もなんもかんも投げ打ってやっていた。30歳で俺は野たれ死ぬからやり抜くんや!と熱い気持ちで、真夏の公園とかでガンガンに稽古をしていた。このコンクールで優勝して、立派な劇場で潤沢な環境で演劇したるんや!

結果としてはダメだった。演出家コンクールで、演出家も悔しがるような維持の悪い批評をするんだ。「役者が良かっただけじゃないか」とかさ。いやそれはある。実際に役者陣は俺も含めて才能がめちゃあった。俺はただのアウトローでどこの劇団にも所属していなかったが、一人は国立の劇場に雇われているプロだし、一人も新進気鋭の中堅どころで今も活躍している。俺はそんな二人に囲まれて主役を見事に演じきったわけだが、挫折に塗れた自分にとってそんなことは屁でもなかった。広大な自然に囲まれて、岩舞台の上で、観客たちから称賛を浴びて俺は大満足だった。そしてあと数回やって、俺は演劇を辞めた。このコンクールが終わった直後に、俺はある言葉を反芻していた。

「演奏者だけ盛り上がって聴衆が冷めているのは三流、聴衆も同じく興奮して二流、演奏者は冷静で聴衆が興奮して一流」

ヘルベルト・フォン・カラヤンの言葉。そして俺はこう付け足した。

「演者も観客も、冷静でこそ超一流だ」

感動ポルノという言葉が流行る前から、感動というのが怖かった。これは俺が高校時代には既に自分は冷静で観客は大興奮という状態を味わっていたからとも思うが、感動は客観性を失わせる。作品についてや、その作品が上演されるに至った社会的背景が全く見えなくなる。俺は恐ろしかった。その点、野村萬はすごい。お亡くなりになった竹本住太夫もそうだ。お二人とも、その芸がもはや超一流の域に達している。野村萬は器の芸の極地、竹本住太夫は我の芸の極地。

俺はあの舞台から急激に情熱が冷めて、数年後にもはや何かをしようという気持ちはなくなっていた。一流にはなれるだろう、しかし惰性で続けていても超一流にはなれない。俺はかねてより憧れていた実社会で、普通に生きられないか努力をし始めた。

という曰く付きの動画のショート版をここに貼り付けておき、興味を持った方は1時間20分の小作をお楽しみください。


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