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第2話『北の玄武が逃げ出した』週刊少年マガジン原作大賞


ハムタコスキーを捕らえたのは、京大脳外科・察時さじ教授の秘書の明子だ。
察時さじの指示で、隣の研究室の実験マウスの面倒を見るように言われていた。

「あら、先生嫌だわ、こんな汚らしいネズミ!」不満を漏らしながら明子は嫌々ケージ内の掃除を始めたが、手際が悪く気づかぬうちにネズミを逃がしてしまった。逃亡したネズミを回収をしていたところ、ハムタコスキーを見間違えて捕まえたのだ。

隣の研究室の花時丸かじまる准教授は自分より歳下でありながら、使いきれないほどの研究費を国からもらっている。花時丸かじまるは顔が広く、研究仲間も多い。研究室の皆から慕われている。おまけに秘書は美人だ。察時さじは焦っていた。このままでは、自分の地位は危うかった。花時丸かじまるが研究成果を出し、大学から評価されるのは時間の問題であり、自分を出し抜くに違いない。そんな恐れが察時の頭に常にあった。

だがこの頃、察時さじにとって面白い噂話が浮上していたそうだ。花時丸かじまる研究室の秘書である理子が辞職の意を示しているらしい。どうやら大山研究員のセクハラが原因だと噂されている。大山は秘書の理子をいつも目で追っていた。毎日のようにランチに誘い出し、雨の日には傘を忘れたふりをして理子の傘に入る。退勤後は必ず駅まで一緒に帰りましょうと声をかけ、電車の路線が違うにも関わらず、理子の自宅近くまで同じ電車に乗ってくるそうだ。

理子は立場上断ることもできず、最初こそ笑顔で大山に合わせていたがこの頃何かと理由をつけ断っている。

大山は今年50になる研究員だが、コミュニケーションに難ありで、周りから厄介な存在として煙たがられている。会話のキャッチボールができず、相手の意図を汲み取れないため人の気持ちを想像することができない。大学病院内ではどの研究室でもお払い箱にされてきた。それを気の毒に思った花時丸が3年前に大山を自分の下で雇ったのである。

理子が花時丸の研究室にやってきたのは1年前のことだ。妄想以外で女性と付き合ったことがない大山には到底敵わない美女だった。

出勤初日に大山が理子にかけた言葉はこれだ。
「前の秘書は大脳を突き刺すような品のない香水の付け方をする人でした。いや〜あなたは違います。気品高く可憐な香り。ずばりシャネルのオータンドゥルですね?」

「大山さん、香水にお詳しくていらっしゃるのですね。そんな高貴な香りがすると言っていただけて嬉しいです。」
理子は正解も述べずにさらりと交わした。いつもであれば、大山は相手がどんな顔をしようとお構いなしに独特のリズム感で自分の話を延々と続けるが、この時ばかりはそれ以上口を開かなかった。理子からはそれ以上踏み込ませないような謎めいた圧力がある。それが却って大山に火をつけてしまったのだ。

自分の指示を嫌な顔せず清らかな笑顔で聞き入れてもらえることに何かの錯覚を覚えたのか、大山は理子が自分に気があると思い込んでいた。

勘違いはエスカレートしていった。

「理子さん、夕方から二条城のライトアップを見に行きませんか」

そんな日が続き、理子は1ヶ月後研究室から姿を消した。察時からすれば喜ばしい出来事であった。大山のセクハラで秘書は退職。大山はセクハラの容疑で解雇。研究は継続不可となり、花時丸も大学から要注意人物として目をつけられるだろうとほくそ笑んでいた。

だが察時の思うようにはいかなかった。
理子が退職した本当の理由は、実験で新薬を打たれて苦しむマウスの世話に心が耐えきれなくなったからだった。

誰もが大山のセクハラ・ストーカー容疑をかけていたのに。理子からすれば、大山は鬱陶しい相手ではあったが、大したことではなかったようだ。男性にしつこく誘われ続けるのは慣れっこだった。そういうわけで、大山は運良く解雇されずに済んだ。難を逃れた大山と花時丸は先週から学会でアメリカに行っている。

察時は花時丸からマウスの世話を頼まれていると秘書の明子に嘘をつき、仕事終わりにマウスのケージを自分の研究室内に移動するよう指示した。これが不正であることを明子に知られたら、ものの数秒で大学に通報されるだろう。明子は察時に何の情も敬いも見せたことがない。それだから余計に花時丸の秘書である理子と比較してしまい腹が立つ。ベテランとは言え明子が医学の知識が乏しいことは都合が良かった。決して怪しまれないように、明子にマウスの世話を頼んだのだった。


目が覚めると4匹のネズミがこちらを覗いている。ここは動物用ケージの中のようだ。入り口は南京錠で閉ざされていた。

「君はどこの研究室から?僕らは花時丸《かじまる》のところ。」

「すみません、何のことかさっぱり...」

「僕らは実験マウス。人間の医療の発展のために遺伝子操作されて利用されてる。やっぱり君を連れてきた秘書が間違えたんだな。」


その時部屋の扉が開いた。入ってきたのは眉間に皺のよった50代の男性だった。

「あれは隣の研究室の察時教授だ。」

実験マウスは小さな声で耳打ちした。

注射器を持ってケージに近づいてくる。

「やばいな、俺らに何か打つぜ。」

ハムタコスキーは次の瞬間頬袋から麻酔銃を取り出し、近づいてくる察時を撃った。

察時はその場に倒れこみ、マウスたちは呆気に取られている。

「な、何したんだ?」

「大丈夫、眠っているだけですから。」

無表情でハムタコスキーは言った。

「奴が持っているのは安楽死に使う薬です。恐らくあれを我々に。」

「やっぱりな。僕らが生きてることは花時丸の何よりの成功の証だ。その証を抹消したかったんだろう。」

「都合よく実験台にしてこの始末かよ。酷いもんだな人間は。」

察時は意識を失ったままだが、ケージから出ることはできない。マウスたちは悲嘆に暮れていた。

外から馴染みのある曲が聞こえてくる。学生オーケストラの演奏だ。ヘンデル作曲のアリア『私を泣かせてください』。過酷なスパイ養成学校時代、慰めによく聞いた曲だった。4匹のマウスは急に静まり返り、音楽に耳を傾けている。

ハムタコスキーは静かに歌い始めた。この音楽は魔女に囚われたひとりの女王が、恋しい人を切なく思う場面の曲だ。残酷な運命を嘆き、自由を求めることを、ただお赦しくださいと歌うオペラである。今の境遇に不思議と重なるものがあった。

実験マウスたちに歌詞の意味を理解することはできない。だが、それでよかった。言葉にもならない悲しみや苦しみに打ちひしがれている時、そういう時こそ音楽が役に立つと知っていたからだ。

4匹のネズミにハムタコスキーはハミングを教えた。恐怖から逃れるためには少し難しいことをしたほうが気が紛れる。4パートに分けて重唱をすることにした。ネズミたちは最初こそ上手くは歌えなかったが、ハモることの気持ちよさを覚えると夢中になって練習した。

夜はどんどん更けていった。時計の針は1時を指している。廊下に足音が響いた。察時の部屋の前で足音が止まる。

同じフロアの一番端に部屋を持つ生物学者の柚木だ。徹夜で締め切り間近の論文を書いていたとろだった。

察時の部屋には明かりがついている。柚木は激しくノックした。「察時先生?察時先生?遅い時間にすみませんね、いらっしゃいますか。」

柚木の声で目覚めた察時はゾクっとした。意識を失っていたことに気づき動揺している。自分の悪事がバレたのだと勘繰った。研究者というのは奇人変人の多い職業だが、柚木の変人レベルはトップレベルだった。口封じなどとてもできる相手ではない。柚木に知れ渡るのだけは避けたかった。

察時は慌てて注射器を隠しドアを開けた。

「察時先生!!今の歌を聞きましたね?」
柚木は興奮気味に乗り込んできた。

「は?歌...何のことでしょう。」

察時は迷惑そうな顔をしている。

柚木はニヤけながらケージの方に目をやった。1匹、察時の見覚えのないハムスターが混ざっていた。

「ああ、もう、うちの秘書ったら、ハムスターとネズミの見分けもつかんのか!」

察時は苛立ちながらハムタコスキーをケージの外に摘み出した。

「しかし珍しいですねえ。動物実験反対派の察時先生がネズミさんの飼育ですか?」

「いやぁ、それがね花時丸先生がアメリカにご出張されていてね。ご不在の間世話を頼まれましてね。」

察時は平静を装って言った。

「それなら私に世話をさせてくれませんかねえ。このネズミただモンじゃない!タダもんじゃない!もしかすると幻のアンガジュマンかもしれない!生物界を揺るがす大発見だ。」柚木は更に興奮を募らせた。

自分の企みに相手が気づいていない様子に察時は一安心した。一息ついた頃には柚木の姿はもうなかった。

「幻のネッズミちゃん、幻のネッズミちゃん」

柚木はマウスのケージを抱えスキップしながら上機嫌で自分の部屋へと連れて帰っていく。

「幸運を祈る。」

その背を見てハムタコスキーはボソッと呟いた。

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