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第3話『北の玄武が逃げ出した』週刊少年マガジン原作大賞

ここは河原町商店街。人気のない飲食店の裏口でハムタコスキーはへなへなと萎れていた。未来は空白だった。無計画で、一文無しで、宿もない。それ以上に生きる気力を失っていた。

ネズミの遺伝子操作をする研究室から逃げ出すことができたものの、人間がネズミを実験動物として扱っている事実は受け入れ難かった。これまで人間を疑うことを知らず、忠実に国家のスパイとして生きてきたが、自分も所詮、国の都合の良いように開発されたハムスターであることを悟ったのだ。

日が暮れはじめた。人が近づく足音がハムタコスキーの寄りかかるゴミ箱の前でピタリと止んだ。見上げると、見慣れた顔がのぞいている。

「逃げられると思ったか。お前の耳にはGPSが埋め込まれている。忘れたのか。」この男の感情のない声にハムタコスキーは身震いした。彼はアンビエント連邦の諜報員、ハムタコスキーの上司だ。

ハムタコスキーは恐怖のあまり逃げ出した。商店街のアーケードによじ登り、河原町通をひたすら北へ北へと逃げた。アーケードは河原町三条で終わりだ。ここで屋根から飛び降り、河原町通を右に曲がる。それから三条通を鴨川の方へ、東の方角へ走った。鴨川が見えた時には、もうすぐ後ろまでアンビエント連邦の上司が迫っている。

ここで逃げ切るには、三条大橋を飛び降りるしかなかった。いくらかの時間稼ぎにはなったが、着地で足を挫いてしまったようである。右足首が酷く痛む。捕まるわけにはいかなかった。だがハムタコスキーは100mほど北へ行ったところで限界を感じた。政府の人間に連れ戻されるくらいなら、鴨川に身投げしたほうがマシに思えたのである。意を決して川の流れに飛び込んだ。

4月とは言え、水温は想像を超える冷たさである。そんな感覚も次第に失われ、鼻に口に喉に鴨川の水が流れ込み意識が遠のいた。まだほんの薄っすらと意識が残っていたのだろうか、それとも死後の世界に行き着いたのだろうか。フワッとした温かみのある何かがハムタコスキーの体全体を包んだ。そして次の瞬間、息ができることに気づいた。水中から出たのだ。

そのまま視線は垂直に上昇し空へと昇っていくのがわかる。あぁ、ついに死んだのだろうな。天へ昇っているのだろうか、人間があれほど憧れている天国というものに向かっているのだろうか。目は半分も開かず、耳に水が詰まって周りの音はあまり聞こえない。しかし微かに誰かが自分に話しかける声がする。

「スピード出るで。しっかり掴まってや。首掴んでええから。」

左右には茶色い鳥の羽の中に紫色が美しく輝いているのが見える。目の前には美しい青色の首。カモだった。風が強く、少しでもバランスを崩せば上空から転げ落ちそうで必死で青い首にしがみついた。

「すみません、あの、その、ワタクシまだ生きてるんでしょうか」

「生きてんで、そんな簡単に死なれへんわ。」

カモは続けて聞いた。

「どないしたん、えらい追われてるやないか」

「えぇ、どんなに逃げても無駄なんです。体にGPSを埋め込まれていて、いつも監視されているから...」

ハムタコスキーは万事休すだった。

「酷いことする人間がおんねんな。」

「助けていただいたこと、感謝します。でも、このままだとあなたも危ない。今もきっと奴らに追跡されてます。」

「ははは。心配いらん。ええとこ連れてったる。」首の青い鳥の声は自信げに言った。

その後、カモはしばらくの間沈黙した。京都市の上空から見える景色は絶景だった。京都中の桜が満開で、街全体が桜色に染まっている。右下には御所、左には大文字山、直進方向には下鴨神社が見えている。このカモはどうやら鴨川の真上を北上しているようだった。鴨川が大きく二手に分かれる場所を過ぎると、カモは方向を変え西へと向かった。そして何やらお寺の集まる場所が見えると、高度を下げ始めた。

しばらく沈黙を守っていたカモが口を開いた。「着陸すんで」。カモは寺の中庭に降り立った。
日は沈みかけていて、庭のキリシタン燈篭の灯りがやさしく照らしていた。

「何や、ネズミやと思ってんけど、尻尾がちゃうな。」

「ええ、あの、一応ハムスターなんです。ワタクシ。」

「やからか。野生ではみいひん顔や」

この時、ハムタコスキーはカモの全体をようやく見ることができた。ただのカモではない。

「おハムさん、人間の言葉話さはるんやな。そんなら話早いわ。」

庭から和室の中を眺める初老の男性が床の間に軸を掛けている。

「和尚様、来たで〜お客さんもおるわ」

カモは和尚様に友達のように声をかけた。

和尚様はゆっくりとこちらを振り返り穏やかな笑みを浮かべている。

「あぁ、朱雀すざくか。珍しいなぁ、こんな時間に。寒そうやわ。上がってや。」

和尚様はハムタコスキーの存在をしっかりと確認しているようだが、驚きもせず迎え入れようとしてくれた。

庭から縁側にのぼると、朱雀と呼ばれるカモは広い茶室のさらに奥にある4畳半の和室へと案内してくれた。「まだ体が乾いてへんなあ。火鉢の隣座ったらええわ。」冬の川に飛び込んだ寒さでしばらく感覚を失っていたが、いま漸く、自分の体が冷切っていることに気づいた。カモに言われるがまま火鉢の隣に行くと、感じたことのないジンワリとした静かな暖かさに包まれた。

和室の中には正方形の穴があって、その中に赤く静かに燃える炭が重なっていた。和尚様は何も言わずに、大きな茶釜を持ってきて、その炭の上に釜をかけた。

日本の寺院の中に入るのは初めてのことであるし、いわゆる和尚様なる人を見るのも初めてのことだった。
和尚様は一旦茶室を出て、お椀が乗ったお盆を運んできた。「残り物やけどこんなもんでよかったらどうぞ」そう言ってハムタコスキーと朱雀の前にお椀を置いた。蓋を開けると柚子の香りがふんわりと香り、湯気が顔を覆った。

何やら、美味しそうな蓮根饅頭にあんが掛けてある。一口食べると体中の血液がどくどくと勢いよく流れ出した。生き返った気分である。もう3日は何も食べていなかった。夢中でかぶりつき、たいらげてお椀の蓋を締めた。
茶釜の湯が沸いてきたのか、ジリ、ジリ、ジリと断続的に鳴り始めている。辺りはもう真っ暗で、真冬の静粛な茶室によく響く。次第にジリジリと鳴っていた釜はジーーーと1つになった。和尚様は釜の蓋を開けて、お茶を点ててくれた。この時お抹茶というものを初めて口にしたが、まろやかな口当たりの良い泡でできた緑色の茶は不思議なほどに甘くてやさしかった。

ハムタコスキーの体全体は温まり、ひと息つけるくらいに平静を取り戻した。そこで不思議に思うのだった。動物が人間の言葉を話しているのにも関わらず、この和尚様とやらは全く動じない。それどころか、当たり前のように朱雀と呼ぶカモと会話をしている。それから、どこから来たかもわからない身元の知れぬ馬の骨を嫌な顔せず寺の中へと招き入れ、ご馳走をしてくれる。
 
そんなことを考えていると、朱雀が和尚様に話し始めた。

「今日な、鴨川で流れてたん拾ってん、このハムさん。えらい怖いもんに追われてるみたいやわ。」

「ふむ。それでここに連れてきたんか。」

「人間の言葉、わからはるみたいやったし、いいやろ?玄武もおらんし、しばらく面倒見たってや」


「おハムさんはそれでええんか。こんなとこやったらなんぼでも居てくれてかまわへんで」

ハムタコスキーは少し困惑した。
また上司が追いかけてきて、自分の居場所を突き止めれば、このお寺に迷惑がかかる。こんなに良くしてもらった心の清い人たちを巻き込むわけにはいかなかった。

「ええ、こんなに素敵な場所もったいないくらいに嬉しいお話です。ですが、ワタクシの耳にはGPSが入っているんです...今いる場所を突き止められるのも時間の問題です。きっとご迷惑になりますので」

そう言ってハムタコスキーは肩を落として俯いた。

「わはは。さっき言うたやん。この茶室で、そんなもん通用しいひんから安心しなはれ。」

ハムタコスキーの深刻さを打ち消すように朱雀が笑って言った。

「ほんまに気にせんくてええわ。おハムさん。とりあえず今晩は泊まって明日ゆっくり考えたらええ。」

和尚様も、大したことではないといった雰囲気を醸し出している。

ハムタコスキーの不安はそれだけでは拭えなかったが、「それではお言葉に甘えて」と照れくさそうに言って泊まることにした。


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