「かもしれない」

「かもしれない」と思うことが多い。いや、「かもしれない」と思うようにしているのかもしれない。
のほほんと暮らしているように見られる私であるが、人並みに考え事をしている時間も結構多い。
日常のいろんな出来事を分析してみたり、それがどういう意味を持つかなどと思索したり。

例えば、日々増えているように感じる外国からの観光客。何故、こんなことになっているのか、これは、私たちにとって、いいことなのか、悪いことなのか。
周りは宿ばかりになって、空き家はホテルか簡易宿泊所の工事を示す看板がかけられる。工事の音、スーツケースのキャスターの音に悩まされる日々。住んでいる側からするとたまったもんじゃない!!

…でも、「本当に観光客は増えているの? 私の感覚だけでそう思っているのかもしれない。」
「このご時世に、工事の仕事、接客の仕事と沢山の仕事が増えている。それに、この近所で育っている子どもは、外国の人に対する抵抗が少なそう。うちの子も物おじせず英語を話せるようになったし…悪いことだけではないのかもしれない。」
頭の中で「かもしれない。」が横行して、考えがどんどん上書きされる。

頭の中がまとまりそうになった途端、違う方向からとらえてみようとする自分顔を出す。
そして、まだまだ自分の知らない「何か」がある気がして、どこまでいっても、「これはこうだ。」とは断言できないのだ。

議論となると、黙ってしまうか、「へぇー」とうなずくか、愛想笑いをする私。
どんな意見を聴いても、「そうかもしれないなぁ」と思ってしまう。
TVのコメンテーターや、自分の意見、見解を述べることが出来る友人たちがちょっとまぶしく見える。
私だって、「○○は○○と思う。」そう言って、対話を広げたり、自分を表現したい。

そう思いつつ、また、頭に一文が浮かんできた。

「私はこれでいいかもしれない。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?