いろんな角度から

私たちの思考って案外スペースのメタファーを多用している。

角度もその一つ。

違った角度から同じものを見てみると気付かなかったことに気付くことがある。

分かりやすく話すことは大切だけど、既に多くの人が分かっていることを再確認するだけではつまらない。つまらないどころではなく、見える世界が狭まってしまう。

とはいえ、斜めから見るのも程度問題で、あんまりズレ過ぎると言っていることが理解されないばかりか、時に聞く人を不愉快にさせることさえある。

読む人をハッピーにさせないものなんて書かない方がいいに決まっている。でも。

ハッピーって色々あるから。

読んだ瞬間の感覚?

なんかの折に思い出して「ああ。そうかぁ。」ってのもある。

私は結構長い目で見る。

今は何だか瞬間のハッピーや、結構確実に見通せるハッピーに偏っているように感じられるから。

特に、抽象化されたお話を、それに興味が湧かない、というだけならしょーがないって思えるけれど、「そんなん意味ないでしょ?」とか「役に立たない」とかいって、不要に貶めるような態度。これ何とかしなきゃって思うんです。

使い勝手がいい概念や言葉が集中的に使われるようになることは自然な流れ。

でも使い勝手がいいということが、より正しく、人々をおっきな間違いに陥れる可能性が低い、とは限らない。

また、同じ概念や言葉を使う以上、それ以前の格差(富や知力など)だってそのまま維持されるか、多くの場合、強い方、より恵まれている方が自分たちの都合の良いように操作してしまえる。

そう。私が懸念しているのは、本来知力に恵まれていて、多少複雑になり過ぎるきらいのある抽象概念の操作や、そこを経てより通じ易い概念をひねり出す、というような知的活動に従事できるはずの人々が、率先して「簡単なもん」「すぐアテンションを引けるようなもん」ばかりを重用して、実際それほど知的資源に恵まれていない人々の人心操作に効果を上げているように見えること。

戦後日本の繁栄を見ても分かる通り、国であるとかその他統治形態というのは、多くの人にとって、あまりよくわからない、日常からは縁遠い、だから四の五の語られることも少ない、という方が、ハッピーでいられる。

でも、それはあくまでもいろんな幸運とかが重なってそうなる、いわば結果オーライにしか過ぎないし、理想的にはみんなが少しずつでも幸運などについて、何でそうなったか?とか考えておく方がいい。

加えて、国とか何とかが発揮するパワー、庶民への影響力のデカさを考えるなら、平和な時ほど、いろんな仕組みについて注意深く点検されてしかるべき。

法律であるとか選挙制度であるとか、税制に社会保障制度などなどは非常に実際的な手続きが絡むので、学ぼうと思えばそれなりの知識を得ることはできる。また、役に立つかどうか?という基準に照らしても、全く無駄だとは言われにくいだろう。

問題は、何で国じゃないとダメなの?とかいう権力の正統性のお話であったり、例えば日本のように1億人以上もの人々を抑圧し過ぎずにまとまりをもたせるための思想基盤とは?みたいなお話も、案外大切なんだけど、あんまり人気がない、ということ。

こういうお話はおっきくて一人一人の日常との関連性を想像することがやや難しい。では、ということで、意外にも繋がっているんですよ、って言うためにも、ハッピーのお話だって出てくる。でもやっぱりそういうお話って、分からないではないけれども、ちょっとガッツ―ンとはきにくい。

どうしても(政治)哲学とか歴史とかに詳しい人々と、そうでない人々とのギャップが大きくなる。方や「ああ。めっちゃ大事なのになー。」方や「えーのー。何の役にも立たんようなことを好きやからってだけでお仕事にできて。」みたいな感じ。

私自身、マネジメントというどちらかといえば緩めの分野でだけしか研究の経験はないのだけれども、やっぱりアカデミック界隈のいけない特徴は実感していて、自分らは詳しい、しかも、本当に細かい知識まで体系的に整理して理解する、という称賛されうるべき努力を重ねているがために、どうも界隈の外の人々を下に見る傾向がある。まあ界隈の外は、文字通り世界が違うので、そんなに頻繁にやり合う場面もないけれども、問題はアカデミック界隈内。どうも”競争”概念が強すぎる。

つまり、端っからアカデミック界隈の外に対して”苦言”を呈するなんてつもりはないんだけれども、界隈の中で激しく競争するもんで、結果、学問に関する手続きであるとか何とか、カベが高くなってしまっているということ。

詳しい人々がそれ程でもない人々に教えてあげる、という雰囲気にはない。

それぞれが自分たちの分野の中で必死に頑張ってはいるんだけれども、結果、「そもそも人間社会の役に立たないとダメなんじゃ??」という問いが、何だかんだ言い訳つけて後回しになっちゃっている感じ。

きちんと体系立てて整理してあるんだ。学びたきゃ学べ。みたいな。。。

まあ要するに、エッセンスをしっかり理解できているアカデミシャンが少ないということなんだろう。だって、エッセンスが分っていれば、詳しくない人々に伝えることなんて簡単でしょ?そうでなくて、「こんなに膨大なんよ。知識って。きちんと整理しようと思ったらきちんと手法からして学ばなきゃだめよ。」とかいうことの方が伝わっちゃっている。つまり、敢えてカベを作っている。そこに気付かないアカデミシャンが多いから、庶民からの人気も当然低いまんま。

アカデミシャンたちの費やす労力の割に、折角整えられている知識がうまく活用されていない。

そもそも科学的なアプローチというのが、人間のハッピーを直接扱おうなんてしてないんだろう。どちらかというとハッピーに関するような問いからは”逃げ”ている感じ。考えるのしんどいから。

科学的アプローチが無駄なのではなく、そのアプローチで整理された知識がどう人々の生活に活用されうるか?が解決されるべき課題。

人々の生活を中心に据えるなら、ハッピーって一体何なんだろう?というのは考えざるを得ないだろう。そこを後回しにしといて、「ほら。こんだけ大量に生産されるんだから、みんなに分け前行き渡るでしょ?」とか言われてもねー。。。いやー。そこまで大量に要らんのとちゃう?って人もいれば、マジで困窮している(分け前に与れない)人だっている。。。

科学的に「分配の問題」に取り組み続けることも大事だけれど、もう100年とかそれ以上のオーダーで分配うまくできてないわけで、、、その状態でのハッピーだって考えられなきゃならないんではないか?

最低限必要と思われるような資源の分配を受けられず、人生を終えてしまう人々がほぼ無数に存在し続けている。この現実。

そのような人々のことを想う時、大概進んだ国々の人々は「かわいそう」と考える。

でも「かわいそう」とかはどうでもいいんです。本当は。

そんな物質的にはかわいそうな人生でも、一つ一つの人生であること。

まずはそこからスタートしなければならない。

どんな人生ではあってもできることなら死を全うするまで支え続けられるべきもの。

そういう認識からハッピーについて考える。

私思うに、スペースだけではなくて、時間の流れで考える必要があるのではないか?と。

スペースのメタファーだと、どうしても比較・対照になってしまう。

分配が均等になんてならない以上、常に格差はある。

それをできるだけ均す努力は大切だけれど、一人一人は時間の流れを生きている。

つまり、不均衡にしか存在しない資源を時間の流れの中でどこに集中的に投入すべきか?

子どもであるとか青年、若年層ではないか?と。

そのように差配するのは勿論壮年老年層。

何がハッピーか?というのは生きていく中で変化していくはず。

若年から壮年へと移り変わる中で、日々必死に生きておれば、自分が移行期にさしかかっていることに気付かないことだってあるのかもしれない。

いつまでも青年、若年のつもりで”自己実現”に邁進し続ける。。。

これってちょっとした病なのではないか?と考えている。

「私は愛に溢れています」「私は努力の結果○○を手に入れました」「私は人生の機微が分かります」、、、。

全部大切なことだけど、いつまでも「私が、」「私が、」と言い続けるのは問題だ。スペースが限られているんです。誰もが等しく主張し続けられるわけではない。

子供や若者を見ていて、未熟に見えるからアドバイスしたくなる気持ち。これも尊い。

でも考えてみなければならないのは、アドバイザーとしていつまでもとあるスペースを占拠し続けていていいのだろうか?ということ。

同じ土俵に立っていれば平等で公正だろうなんてのはナイーヴな考え。

先輩や先達者ってのはいつだって有利。

時間軸は大事。

自分たちが若いころに辛酸を舐めさせられたからといって若者たちに「しゃーないやろ」って言って平気でいられるというのはちょっと子供じみている。

大人になったなら、自らが成し遂げてきたことを愛でつつも、まだまだこれからの人々にも同じかそれ以上の成果を上げてもらいたいと祈るようにならなければ。

「花は散ってより美しく、人は死んで人の心に蘇る」

立派な人生だというのなら、次世代をもっと信頼してもいいだろう。きっと思い出して、それをエネルギーに彼女・彼らも引き続く世代を導いていってくれるに違いない。

誰も永遠には生きられないし、何百年後に自分の遺したものがどうなっているか?なんて確認することはできない。

であるならば、自我はもっともっと抑えてもいい。

生きている以上立派には違いないんだ。

おっきな声で「私の方が立派です」と喚き合ったところで何かいいことが起こるのだろうか?

喚かなきゃ淘汰される?

それなりに声が出るならいいだろうけれども。。。

届かない人々の声はどうするのか?

そんな声は振り返るべき価値もないと???

まあどのように生きていこうとも基本的には自由。とはいえ、あからさまな嘘って醜い。色々と解決不能の問題に悩まされているのなら、別に常に強がらなくたっていいだろう。弱っちいところに正面から目を向ける。愛情だって湧いたそばから湧いた証拠を示そうとなんてしなくたっていいだろう。深みや悲しみの漂う人間になりたいものだ。


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