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可視化について考える

フィルムで撮るのがあたりまえだった時代から、
デジタルになってだいぶたつ。
モバイルで撮れるクオリティが上がり、
編集もとても身近になった。

いろあざやかな風景。
生き生きとした接写。
タッチや空間認識を変えるような加工。

シャッタースピード、フォーカス、露光……。

もともと自分はぜんぜんそういう技術は持ち合わせておらず、
見たまま、写したまま、写りこんだままにしている。

あらゆるスタイルの写真を目にしていると、
それでいいのだろうかという疑問が以前は強くあった。
それは果たして、目にしている真実なのだろうか、と。

しかし、今ふと気づかされるのは、
見たものを単にそのまま見せるということを「可視化」というのではない、ということ。
つまり、「可視化」とは必ずしも、”生(なま)”のものを提示することではない、
ということ。

いま目にしている、
目にとめているこの風景、
この一瞬、
この表情から、
自分がなにを感じているのか、
なにを見ているのか、
見い出しているのか。

それをよりあきらかなカタチにしたいから、”技術”を駆使する。
自分の心をとらえた部分を際立たせて「可視化」するために。

いまさらながらにそう思ったのは、「可視化」を求められることの多い業務を担当するようになったからか。
気持ちがすり減るような毎日の中で、自分が求めている表現のありかたを考えるようになり、場を求めてきたからか。
そして、ありのままを提示することの無力さを感じてきているからか。

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自分のこころのありさまを「可視化」することについて、
もうしばらく考えつづけてみる。


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