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おたより

手紙を書かなくなった。

中高生時代は、どれほど便せんや封筒を集めるのに夢中になっていただろう。
交換日記や手紙のやりとり、友情をたしかめあうツールとして「紙に書いたもの」のやりとりが主流だった時代。

いわゆる文房具にはわくわくさせられる要素がたくさんあるのだけれど、その中でもノートと封筒と便せんセットは特別だったと思う。
デザインはもちろんだけれども、便せんやノートなら罫線の数、封筒は郵便番号枠の有無が気になる。
実際に入手した後使ってみて書き心地もよければ、ストック用にもう1セット買っておいたり。

自分の持っている筆記具との相性も大事だ。
手になじんでいる万年筆(といっても中高生でも買えるもの)や、シャープペンシル、水性ボールペンなど、こちらを集めるのも楽しい。
ただ、10代20代の頃とは違って、勢いにまかせて買い集めることは少なくなった。「手にしたい」という欲はあるものの、ほんとうに使うために必要な場合に、と節制している。

ともあれ、手紙のチカラを意識する。
ハガキ一本、手紙一通――それがたとえDMであっても。。

大事なことを忘れてはいけない、とでもいうように、ふとした一通で気づかされることがある。
たとえば、年賀状や欠礼状では、そのひとの消息を知る手がかりの一つであるということを。

最近は、古いハガキを引っ張り出して、切手を貼っておたよりをする。
思い出したように、の頻度だけど。

何枚かの少額切手を足したハガキをもらったことが、きっかけになっている。
そうか、こうして形に残すのも、「おたより」ならではのこと。
内容云々より、使ったハガキや切手がまた、おもしろいではないか。

文学館などで作家の書簡が展示されることがある。
そこで、日常の些事や、それにかかわる家族への労いを垣間見たときにも感じることがあるけれど、「手紙」って本来そういう他愛のない思いを伝えるものでもあるのだ。

特別であって、特別ではない。

いや、特別なものではないという、特別なもの?

Snail Mail。

時間と空間を経て届く即時性のない一通には、「温度」がある。

とりとめのない内容をみっちり書いたり、余白の多いつぶやきをつづったり――そんな中にも、そのひとの心映えを感じる。

そんなわけで、メールをすることもある相手であっても、そんなハガキのやりとりをすることも、なんだか楽しくなってきた。
年賀状とはまた違うおもしろみがある。

もっとも、相手に合わせて筆記具やハガキ、便せんを選ぶような境地にはまだまだ到達はしていないのだが。
『ツバキ文具店』みたいにね。

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