持ち場でがんばることの意味
高校生の頃、わりとガチな吹奏楽部に所属していた。
中学卒業まで陸上・スキー一筋だった私はノリで完全未経験で入部して、吹奏楽ガチ勢に囲まれ、右往左往していた。
当然同級生は私なんかよりはるかに上手だし、後輩も小学校の時から吹奏楽をやっている子ばかりで、高校から始めた上に不器用だった自分は立つ瀬がなかった。
合奏中に指揮者に名指しで怒られて、言われたことをやろうとしても出来なくて、自信をなくす。その繰り返し。
同級生にもバカにされているんじゃないか。後輩にもバカにされているんじゃないか。そんなことばかり考えて、練習しなきゃできるようにならないのに、練習に行くことも嫌になっていた。どうせ行っても居場所ないから。
打楽器パートのひとつ上の先輩が引退したら、自分も部活を辞めようと思っていた。打楽器パートは独立して練習をしているので、基本的に最上級生がメニューを決めて、リードしなければいけないから。最上級生になった自分がそんなことできるなんて、全く思えなかった。
高校2年生の夏。先輩たちには申し訳ないが、早くコンクールなんて終わればいいと思っていた。上の大会になど、行きたくなかった。もうあんなゴミを見るような目で見られる音楽室にいたくなかった。早く辞めたかった。
不運なことにその願いが届いたのか、先輩は早々に引退することとなった。どうしよう、と思った。いざ辞める、と言うべき時になって迷った。ここで辞めてもいいのか、と。
辞める、と言うタイミングを逃した私は、なぜかYahoo知恵袋に質問した。
部活の後輩が、自分よりも優秀です。自分にはなんの取り柄もありません。こんな先輩でもなにか出来るでしょうか、と。
大多数は「やる気ないなら辞めてしまえ」とか「そんなこと言ってるうちはダメ」とか「楽器触ってるだけで幸せじゃないの?」という回答だった。ごもっともなので、もう辞めるしかないか、と思った。だって、自己肯定感は底をついてやる気はないし。今更技術力のなさを嘆いても遅いし、楽器触ってて楽しくて悩みもなければこんな質問はしていない。
その中で一つだけ、長文で回答してくれた人がいた。そこにはこんな趣旨のことが書いてあった。
「技術では後輩に負けていても、その部活にいた時間は後輩より長いのは事実なのだから、その経験を活かしなさい。技術以外の、準備や段取りなどのところでイニシアチブを取りなさい。技術で足りないところは恥ずかしがらず後輩に聞きなさい。」と。
もう何にも頼るところのなかった自分は、この回答を信じるしかなかった。今ならありえないが、あの頃はネットの世界のちょっとした言葉に縋るしかなかった。それでもこの言葉が、私の部活引退までの支えとなった。
私には、大勢の中でキラリと光る才能はない。運動は人よりもできず、音感もリズム感もない。でも、無いなら無いなりに、居場所を作り出すことはできる。私のようなレベルでは居場所は用意されてはいないので、作るしかない。ただそれでも、作ることはできるのだ。始発で学校に来て自主練をしたり、準備や段取り、雑用を進んでやってみたり。
後輩が私のことをどう思っていたか、同級生が私のことをどう思っていたか、正確には何も分からない。ただ、それでも、私はやれるだけのことをやった。気がついたら、あっという間に引退だった。
人には人の持ち場がある。みんながみんな表舞台で、大きなステージに載って、自分の力だけで輝くような主役になれる訳ではない。
自分はただの脇役だって気づいた時、そんな時、腐らずに自分の居場所で、持ち場で、がんばれる人でありたいと思う。
あの頃、そんな経験が出来て良かった、と心から思う。
後輩に追い越されることは恐怖でしかない。(ちなみに中学生の頃には妹にレギュラーの座を追われたこともある)その事実を素直に受け入れられなくて、さすがに泣いた。だけど、泣いたって結果は変わらなかった。
でもこういうもんだ。私の人生ってやつは、不器用で、苦労するようにできてるんだ、って思うようにしている。
そうしたら、しょうがないなぁーって思いながら、持ち場に戻って、またがんばれるから。
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