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人生てんでんこ

転職することにした。既に転職先の面接を終え、現職には退職を申し出て、約3ヶ月後には次の職場にいく予定になっている。

約2年間の在籍で、本当に良くしてもらった。大学を休学して色々活動していたご縁で入ったこの会社。異色の入社経路だったのにも関わらず、1年目から比較的大きなクライアントを任せてもらった。若干のキャパオーバーを起こしつつも、涙こぼれそうになるようなでかい失敗をして上司と共に謝罪に行ったり、2クラス60人引率してダンジョンのような東京駅を迷走したりした。今ならわかる、先輩方は私が失敗したらその責任を負うつもりで、それでも私にやらせてくれたのだと。私の経験のために。

大学を休学して、その時の活動が繋がって今の会社に入った。そんな会社を辞めようとしている今、休学していた時の活動とも一区切りをつけられそうな気がする。
そもそも、もう活動はしていないのだけれど。
でも、これで本当の意味で次のステップに進めるような感覚がしている。

休学したのは2019年だから、もう4年も前。あの頃の私は、とにかく「何者かになりたかった。」就活を目前に控え、自分の価値がどこにあるか分からなくて、でも普通の選択はしたくなくて。傲慢に言えば、誰にもできない選択をすることが出来る私、周りとは違う私、だと思いたかった。思える私でいたかった。
地元の中高生にキャリア教育に触れて欲しいという気持ちや地元のいいところを知ってほしいという気持ちに嘘はなかったし、至って真剣に活動に取り組んでいた。ただ、そもそもの最大の動機が「何者かになりたい」というものだった。周りとは違う、何者かになりたかった。

過去形で書いているけど、今もその気持ちはある。でも、今はその気持ちを少し離れた距離からそっと見守っているような感じ。その気持ちをエネルギーにして走るには、どこか気恥ずかしさを感じるようになってしまった。
そしてなにより、気づいてしまった。「何者か」なんてものはないんじゃないか、ということに。

現職では、上手く立ち回ればキャリア教育に関われる可能性もあったけれど、紆余曲折を経て今は休学していた時の活動とは全く関わりのない仕事をしている。
紆余曲折の中で、自分が勝手に誇りにしていた「休学して、その繋がりで就職するという特別な選択をしたこと」自体が特別すごいことじゃないと気づいてしまった。それで何者かになれるわけではないことに気づいてしまった。どこに行っても自分はただただ自分で、鈍臭いしやらかすし、周りに助けてもらうことばっかりで。たった数個の経験や選択で、理想の自分になれたわけではなかった。

でも、前と変わったことがひとつだけある。
それは、言い訳をしなかったことだ。

自分で休学することを選んだ。
休学した繋がりで、就職することを選んだ。
就職先で紆余曲折を経て、活動とは関係の無い職に関わることを選んだ。

思ったより、つまんないこともあった。理想とかけはなれていたことも。それでも、私はたしかに自分で選んだんだと、だからやれるところまでやるんだと、そう思っていられた。

この選択、ここが嫌だったな、ミスったかもなと思うくらいなら、それを改善する努力をできる限りすること。
今目の前にあるやるべきことを全力でこなすこと。
いつか辞めようって思いながら、「今」の手を抜かないこと。

あの時選択をミスったから今がつまらないのだと、辛いのだと、思わないように努力をすること。

そんなふうに仕事に向き合っていたら、サービス残業やサービス休日出勤もしちゃっていたけれど、大きな仕事の前は体調がおかしくなったりもしたけれど、無事終わった時は達成感があった。ここが潮時だと思った。

もう一度、きちんと選ぼうと思った。
私のやりたいことや私に向いていること。体調がおかしくならないように働く方法を。

転職先にもいい面もあれば、悪い面もあるだろう。それでも、この選択が正解だったとそう思えるように、自分でやっていくしかない。
上司や同僚、友人、家族は私の身を守ってくれるわけではない。
「津波てんでんこ(津波が来たら周りは構わずまずは自分の身を守れという意)」という言葉があるが、津波に限らず「人生てんでんこ」なのかもしれない。

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