背負う者

電車に乗り、長い座席の端に座った。
目的地までは約40分ほどの道のりである。
いつも通り音楽を聴きながら本を読んでいた。

4つほど駅を過ぎた頃、時間で言うと20分ほどが経ったあたりでふと顔を上げると、向かいの6人用の座席の真ん中の床に千円がはらりと落ちていた。
端にしか人は座っておらず、そのことによって千円札はさらに存在感を放っていた。
皆が同様にその千円札を見て見ぬ振りをしていた。
明らかに所有者はもう電車内にはいなかった。

この千円札の行く末はどうなるのだろう。
何かの間違いで僕の手元に来ないだろうか。
などと想像を巡らせる。
できることであればもちろん欲しい。
僕の1時間分の労働がそこにぽつんと佇んでいる。
車内が僕だけになったりしないだろうか。

こういう時は自分の中の天使と悪魔が出ると言うが、実際はただの己との対話である。
しかもこの己は限りなく悪魔側である。
「あの千円持って帰りてぇ〜〜」
もはやこの考え以外は何も浮かんでこない。

しかしながら、僕も人間として腐りきっていないので堂々と千円札を拾いに行くことはしない。
ただ傍観するだけである。
誰かがその千円札を持って行こうとすると、だめじゃないですか、と止めることもせず、カスみたいなやつやなと非難するだけであろう。
どこまでも外野である。
外野を通り越してアルプスである。
永遠の第三者。

するとその時、確かな足取りで左端から僕の画角に収まりに来た人間がいた。
高校生ぐらいの肌の焼けた青年である。
カバンと服装で一目でサッカー部であるとわかった。
千円札の前で立ち止まり、拾い上げると、力強い張りのある声で周囲に、
「どなたか落としませんでしたか?」
と尋ねた。
僕も含め、周りの人々が首を横に振ると、爽やかな声で、
「そうですか」
と言い、次の駅で颯爽と降りていった。

おそらく駅員に届けに行ったのだろう。
電光石火の善行に開いた口が塞がらなかった。
高校生という生き物があんな行動ができるものなのか。
その一方で僕はなぜ一歩も動かなかったのか。
ピッチで活躍した彼。
アルプススタンドの僕。
年下の青年の行為に襟を正さざるを得なかった。




彼が後にW杯ジブラルタル大会で日本を準優勝に導くことを、まだ僕しか知らない。

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