災害復興の考え方は色々とあるのかもしれない

能登地震の甚大な被害状況と、厳しい地理的条件や大きな地形変動の結果を見ると、復興の在り方というのは一概には言えないという思いもある。

中には、合理的な考え方を掲げる人たちも既にいるようだし、ネット上での「現実的な意見」は理解できるものではある。当事者ではない(心情的な問題を度外視できる)から、ということも一因かもしれない。


場合によりけり、とはいえ、自分自身の考え方を12年前に書いているので、それを示しておきたい。



挙げた記事中で、次のように述べた。

『人口減少社会によって生じうるのが、いわゆる僻地の維持管理コストの問題である。現在でも限界集落と呼ばれる地域があり、それら地域に道路網、電気、水道、電話などのライフラインを維持することは人口集積地域に比べてコスト高となることが予想される。風水害などの災害復旧対応についても、しばしば災害による被害を受けやすい地理的環境にある上に、少数者の利益を守る為には復旧せざるをえないということになれば、一人当たりコストが上昇する要因となるだろう。

 コスト面だけから考えれば、都市化と人口集積化が望ましく、高齢者の利便性という点においても僻地に点在するよりは集積地への移住が望まれる。そうなれば、ライフライン維持コストの抑制が可能となるであろう。

 原子力発電所の立地は多くの場合、人口集積地からは遠い地域に配置されていることが多く、原子力発電所の運転や管理という点で、僻地と同じような維持コストがかかることになる。人口減少によって、これまでよりも都市化が進展した場合には、発電所の立地地点の遠さがライフラインの維持コスト高を招く要因となる。原子力発電所と電力需要地域の中間地域に存在する人口が少なくなればなるほど、「原子力発電所がそこにある」という理由の為だけにライフラインの維持を続けることになってしまうので、割高になるのである。』


志賀原発の存在云々を抜きにしても、限界集落という地域の災害復興について言えば、人口当たりでは高コストになってしまうというのは不可避というのは事実である。

こういうことを言う人間は冷酷だとか思われるかもしれないが、同じお金を使うなら、復興事業に大金を投じるよりも生きる為の資金に使ってもらった方がよいかもしれない、ということはあり得る。それは、当事者たちの選択というのが重要となろう。


未来が見通せないということが事実としてあるなら、仕事も無くなり、いずれは集落を捨てざるを得ないという事態が遅かれ早かれ訪れることになるだろう。

そういう時、どうしたらよいのか?


難しい問題なのである。

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