雑記20/06/30火 押井守・最上和子『身体のリアル』、抜き書き、「人体」とはちがう「身体」がもつ広い射程


押井守・最上和子 姉弟の対談本『身体のリアル』(エンターブレイン刊、2018年)を読み終わって、とりいそぎ付箋を貼っていたところを抜き書きしてみる。

(もう、図書館に返さないといけないから・・・・・・)

ところどころ太字なのは、わたしのつけたアンダーラインです。

 

あとこちらのnote記事、最上和子ワークショップ体験記。興味ぶかいー。


押井守 作品鑑賞の手引き系

(※学生運動で、隣の人のヘルメットが割られた瞬間逃げに逃げた、という話の後に)

(押井)やっぱり自分の本質はそっちなんだと思うんだよ。現実過程に本気で関わる気はまったくないんだよね。 (045)

 

『イノセンス』(2004年)での身体論のテーマに繋がる話など

(押井)何度か(※姉の)公演を手伝いながら見に行ったりしてた。ちょうど『イノセンス』の前だったけど、それがきっかけというか、それからわりと漠然と考えてたものを改めて考え始めた、というのが自分なりの身体論みたいなことなんだよ。 (064)
(押井)更年期とぶつかってたんだよね。それと『イノセンス』の3年間の消耗と重なってぶっ倒れたわけ。(略)それで(略)思い切って空手を始めた。(略)映画を作っている自分じゃない、いわば生物的個体としての自分に価値観を持ちたいと思い始めたんだよね。  (066)
(押井)『イノセンス』って(略)やり切った気がした。それで姉ちゃんに見てもらったら感想がね、結構ショックだった。ひと言「若書きだ」って言われて(笑)
最上 ふふふ(笑)。  (068)
(※インタビュアー:大塚ギチ) 『攻殻機動隊』というシリーズは原作の士郎正宗さん自身が1作目の『攻殻機動隊』ですでにテーマを失っていますよね。だから『イノセンス』で押井さん自身が真正面から身体をテーマにしなきゃいけなくなったと思うんです。  (102)
(押井) いま逆にそこで全部が空洞化しちゃった(略)だって対象がないんだもん。そこからどこを根拠にものを考えたらいいんだろう、というか私のほうはものを考えることとイコールだから、映画を作る、表現するということとほぼイコールだもん。だからなにを根拠に映画作ったらいいんだと思ったときに、やっぱり身体になるのかなというさ。  (198)
(押井) 舞踏だけじゃなくて、映画だろうがマンガだろうが、もっと言えば美術なんか完全にそうじゃん。わかるもの以外に見る価値ないという、そういう価値観が蔓延してるじゃん。わかることが最優先なわけじゃん。俺に言わせたらわかることなんかどうだっていいんだよ。わからないものを見たいんだよ。わかることなんかいまさら見てどうするんだよ……と思ってたし、いまも思ってる。わからないものをわかるようになりたいからがんばって見るんでさ。  (286,7)


現在のサブカルチャー界について(?)


『うる星やつら』も『パトレイバー』もとどめをさした(?)男。いやパトレイバーは自分で復活させたか・・・。

押井  どう始まってどう終わるかというのが物語だからさ(略)キャラクターしかない。誰もその物語を終わらせるという意欲がない。物語を終わらせる意欲がないということは世界を語ろうとする意欲がないということなんだよ。  (192)
(押井) (※『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』が)虚構だ現実だと言われたけどさ、じつは虚構も現実もないんだよ。同じものなんだよ(略)養老さんなんかうまいこと語ったんだけどね(略)「バーチャルなんかない」って言ったんだよね。「人間自体がバーチャルで、人間は生まれたときからずっとバーチャルで生きてますよ」っていうさ。意識が宿ったときから意識に映るものはみんなバーチャルなんだというさ。 (226,7)


最上和子 舞踏の見かた・舞踏の立場

(押井)わりと社会化しやすい表現としにくい表現があるんだよ(略)舞踏ってすごく社会化しにくい。しにくいどころじゃなくて、できない
(最上)うん、そう。 (051)

押井監督との血のつながりを見るような(?)毒舌もあり。舞踏をはじめるまでの人生の話から

(最上)その当時、山海塾が海外で評判になって、凱旋公演を日本でやっていてそれも見に行った。そしたらバレエより全然面白かった。なんでだかわからないけど、それから「舞踏というものがあるんだ」と思っていろんな舞踏を見に行くようになって。まあ当時は見る目がないから山海塾でもすごいと思っちゃったわけで、いまは全然思わないけど(笑)。 (055)

そして「身体」の話

(最上) 発表しようがしまいが、武道の人って死ぬまでお稽古するじゃない。(略)人生の一部というか。それと同じで公演をやろうがやるまいが、舞踏家になろうがなるまいが、身体に取り組むという一本の太い線が最初にあって、その枝のひとつが公演というとらえ方にだんだん変わってきたんですよ。  (074)
(最上)私、心理学とかは一切興味がないんですよ。むしろ大嫌いというか(笑)。「なんで心を心として扱えるんだ」という気持ちのほうが強いから。だって「問題は身体じゃないか」というのがずっとあったから。 (096)
(最上) 人間の身体というのも土地と離れたらもうそれは人体ではあるけれども身体ではない。トータルな身体ではないと私は思っていて(略)舞台というのは切り離さないと成り立たないから、それがなんか自分にはちょっと違和感があったのかなと思って  (145)
(最上) 例えば日本舞踊でも小さく動けるのは上級者なんですよ(略)あとは能楽師の人とか体験してるはずなんだけど、誰も言わないんですよ(略)自分の身に起こっていることが人間にとってどういう価値なのか、そういう場所まで持っていくということを誰もしないの(略)一部語ってる人はいますけどね、安田登さんって能楽師の人とか。でもまあ、はっきり言って語ってる内容が私のほうが全然深いから(笑)。  (162)
(最上) 私は歩行ってものすごい重視してるんですよ。能なんかも歩行の芸術というか、歩行しかしてないわけだけど、私は能の歩行よりもっと全然面白い歩行はできると思ってるから(笑)。能の歩行ぐらいでみんな大騒ぎしてるのが悔しくてしょうがないんですよ(笑)。(略)
(押井) やっぱり表現って額縁が必要だからさ。
最上 そうそう、額縁額縁
押井 額縁のないところに表現ってないし。  (166)
最上 だから身体って面白いのは(略)前知識がなくていきなり(略)なにもない状態で見せるとみんな沈黙するんだよね。なにを言っていいかわかんないわけ。(略)自信がないから言わないんですよ、みんな。(略)いきなり前提のない身体をドンと出されたときに語る言葉を持ってる人ってまずいないんですよ。だからそれでまた余計社会性が持てないという。
(略)だからわかるようにするために衣装を作ってみたり、音楽をかけてちょっとだけ物語性を入れてみたりとかやるんだけど、そうするとそっちにだけ反応しちゃう。  (190,191)
(最上) 表現ってやっぱり私はすごいものだと思ってるので、身体という広い土壌があったとしたら、広い土壌のなかで畑を耕して、木を植えて、花を実らせて、野菜を取って収穫していくその頂点にあるのが踊りという花なんですよ、私にとっては。その花があることが大事。土壌だけあればいいというふうには思わない。身体という文化だけがあればいいんじゃなくて、その身体という文化がそれだけ豊かなものなんだというのを証明するのがやっぱり花なんですよ。  (201)
(最上) ヨーロッパ系の舞台表現という土壌を取っちゃったらなにもしてないんですよ、はっきり言って。(略)人間しかいないんですよ。人間がいろんなことをやってるだけなんですよ。これがいくら言ってもどうしてもわかってもらえないのね!(笑)。誰もそれを疑ってないんですよ。だから有名なシルヴィ・ギエムという引退したバレリーナがいるんだけど、ものすごいですよね。あれはまさにサイボーグ。私なんかが見るとやっぱり体操。(略)それが疑われないのはなぜかと言うと、ヨーロッパ文化という土壌の上に立ってるからですよね。  (202)
(最上) 思想的な意味合いというか、現代人には足の下の大地がないという、そのことそのものなんですよね。(略)自分がなにを根拠にして踊るのかと考えたときに、もう死しか思い浮かばなかったの。(略)自分は死者の上に二本足で立ってるんだと思ったときに踊れるな、っていうふうにはっきり自覚できたんですよ、本当に。  (219)
押井 (※空手の型は)見えない敵と戦えばいいのかなと思ってやってたの、最初。そうしたら「違いますそれは」っていうさ。
最上 (略)踊りの場合は(略)ひとりで動く根拠はなにかと言うと一気にゼロになっちゃう。目的がないから。だからそこからどうやって動きを立ち上げていくかがものすごく大きなテーマになっちゃって(略)なにかって言うと、360度なの。これをどうするかというのがものすごい難題というか、永遠の課題なんだけど  (243)
(最上) 身体のまわりをいかに意識できるかというのはすごく大きいんだよね。まわりの空間を持ってる人と持ってない人は同じ動きをしても全然違うので(略)「あんたより先に空間があるんだよ、この部屋が、建物があるんだ」って。  (247)
(最上) (※東洋の踊りの衣装が)ゴテゴテというのはゴテゴテになんで耐えられるかと言うと、あれは民族舞踊であり芸能舞踊であり、土地と共同体が支えてるからあのゴテゴテが耐えられるんですよ。個人になっちゃうとゴテゴテを着るとただの趣味になっちゃう。そこで個人でしかないのに個人を超えたいと思って踊ってる人間はなにを着たらいいのかということなんですよ。それがずーっと課題としてある。どうにもならない。  (255)
(最上) 身体の内側に入るというのは、いままで生きてきた外側の価値を追って生きてきた人間が、まったく違う景色を見ることができる、そういうものなんですよ。(略)本当に世界が一変するという体験を持つだけでもずいぶん違うだろうなって、それを私は一番強く思うの。  (330)

そして

(押井) 舞踏なんてお金ほとんどかからない世界じゃん。
最上 かかんないかかんない。こんなにかからなくて、こんなにエクスタシーを味わえるのになんでみんなやらないんだ!っていうさ(笑)。 (略)だけど舞踏ってさ、貧乏人しかいないんだよね。(略)なんで普通か普通以上の人って絶対来ないのかなって不思議でしょうがないの。  (313,4)


最上さんのブログを読んでみようと思う。


身体のこと、公演が目的ではなく稽古の途中に過ぎない、ことなんかは、保坂和志さんのエッセイにもよく顔を出すなあ。


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