見出し画像

(田舎の)駅にひたすら佇んでいたい話

駅といったらどんな景色を思い浮かべるだろう?
東京、新宿、梅田……みたいな、大都市圏の巨大なターミナルから、地方ローカル線の、単線のホームに待合室がぽつんとあるだけの、一日の乗降客数が50人にも満たないような駅まで、日本の鉄道駅の表情は十人十色である。

大都市圏の電車は次の電車をほとんど待たなくて良い。10分も待てば大体乗りたい電車に乗れる。
めんどうな朝の出勤はその便利さに甘えてしまい、乗換案内のアプリでも表示されないようなギリギリの乗り換えをこなして、目的地へ向かうことがときどきある。
一方、仕事で現場をまわって、一息つきたいときは、目の前に来た電車に敢えて乗らない、ということをする。
売店やコンビニで小腹をみたすものを買っておき、行き交う人々や電車を肴に、ホームのベンチに座ってひとり頬張る。
現場が複数あるときなど、電車に合わせて移動しているといつまでも休まらん。かといってカフェでコーヒーを一杯嗜むような時間の余裕もない。しかしそういうときに、5分や10分早い電車で急いで移動したところで、体力を無駄にすり減らしてるだけなように思える。
電車の行先なんて変わるものでなし、ちょっと見送ってやろうくらいの気持ちで、この小腹満たしの時間をつくる。慌ただしい都会の駅の空気を俯瞰し、我に戻ってリラックスできる気がする。

この「時間をつくる」という行為は、地方都市の鉄道をつかうと自然に発生する。自ら「待つ」選択をする、というより、本数が少なくつぎの電車まで時間があるので、待つことしかできないのだ。
その時間で勉強でも、仕事でも、Twitterでも、YouTubeでも、したいことやすべきことがあるならば、時間も有効に使えるし結構なこと。
しかし、このどうしようもなく空いた時間に、ちょっと目を手元から逸らしてみて、「視覚的な深呼吸」をしてみても良いんじゃないの。というのが今回の趣旨である。


電車を待つうえでは、ベンチや待合室の、座り心地、居心地が大切になる。無人駅でも座布団が置かれていたり、本や花が置かれていたりしたら、ああちゃんと人の手が入っているんだな、と嬉しくなるし、
逆に駅員のいる賑やかな駅でも、いすが破れていたりゴミが散らかっていたりしたら気持ち良くない。

大都市の駅には、等間隔でやってくる電車、乗り降りする客、鳴るメロディ、といった感じの明らかなリズムがある。
地方の駅では大きなリズムは感じられないかわりに、駅のまわりの不規則なリズムを、天候や空気とともに拾う。
郵便バイク、軽四、雨音、雲の動き、蝶、風向き、鳥、農業機械、防災無線、工事のトンカチ音、救急車。オバチャンの立ち話、水筒をあける音、お菓子の咀嚼、部活帰りの自転車。小さな踏切の音、ようやく遠くに見え始めた列車の前照灯。

先日、セブンルールという深夜番組に、末永幸歩さんという美術教師が出ていたのをたまたまテレビで見た。授業のしかたが人気ということで、学校から会社まで出張授業をやってくれとひっぱりだこらしい。
中学生のピチピチヤングにも、スーツ着た50のおじさんにも、「自由に絵を描いて」という、シンプルこの上ない授業内課題を出す。生徒はさまざまな絵を描くけど、末永さんはどんな絵も褒める。たとえ授業の時間でなにひとつ描けなかった人がいたとしても、「この時間中、普段考えないようななにかについて考えることができたなら、それで十分」と末永さんはいう。

美術は本来そんなものなのかもしれない。
あるものを良いと感じるときに、また良いと感じるために、なにかの理由や解説を求めてしまうことがあるが、なんとなく「良い」と思ったならそれで良い。
そしてなにか理由や感想があったとしても、それに正解はない。

私が今回のテーマにしている「駅にひたすら佇む」ということも、いわば一種の美術というか、芸術の鑑賞だ。そんなことをいったら世の中のことすべてが芸術なんじゃないかという気がするが、実際本当にそうなのではないか。

日本の津々浦々で芸術祭というのがひらかれているけれど、その津々浦々のありのままの時間の使い方、それによって生まれる風景が、すでに芸術であるんだろうし、新たに行う芸術の大切な基礎になるんじゃないかというのが、地方を遠くから覗いたときに、個人的になんとなく思うことだ。

芸術はひまな人の、金持ちの道楽という人がいるが、無目的に、ただからだのなじむままに、なにかをつくったり、享受したりするもの、という意味では、明瞭な技術と目標をもって行う仕事との対比としてそのとおりなのかもしれない。(仕事の過程で無意識的に生まれる芸術や、職業的な芸術もあるので一概にいえないだろうが)




私は駅にひたすら佇むために、旅行という題目のもと無意味に田舎の電車に乗りに行き、さらには駅に佇むためだけにレンタカーで駅へ乗り付けたくなるほどだ。電車に乗るための施設であるのに、電車に乗る焦りさえ忘れて、ただ駅に佇んでいたい。

暇だ───。
仕方ないのでそのへんの草や石をいじったり、まわりを歩いてみたり、駅のベンチの風化した木目をなぞったり、県警のポスターを用もなく眺めたり、する。
ホームの目の前に見える和菓子屋で大福を買い、ベンチに座って遠くの送電塔を見て頬張りたい。(本当にそんな駅がある)

電車がこようが、かまわん、置いてってくれ。
時間よ、私を取りこぼしていってくれ。


ふだん時間に追われているすべての人よ。たまにはそのへんの田舎の駅へ行って、ただ周りにあるものと、せいぜいカメラを肴にして、駅に佇んでみてはいかがだろうか。暖かくなればカップ酒も携えたら気持ちよさそうだ。。。


おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?