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狐日和に九尾なぐ 第二話

■化けたのは、わらわだけ。

 五月雨の昼下がりだった。釧路からさらに東に位置するこの厚岸の雨は東京と比べてしんと冷たく、春すらも迎えてないのではないかと勘違いしてしまうほどだ。
 とはいえ、この天気もむしろ望んでいたことだ。せわしい往来と蒸し暑さが息苦しい都会と比べると、初夏らしからぬ肌寒さと雨音だけを感じていられる田舎というのは、幾分か気が楽になるような気がした。

「田舎に幻滅しても知らないからね、か……」
 厚岸に移り住むことを母親に伝えると、まず返ってきた言葉がそれだった。痛いほどに身に刺さったが、私はもう東京から離れることを決めていたのだ。

 知らない土地、知らない気候、知らない人たち。
 仕事だけはインターネットで東京と繋がっているけれど、そのほかの一切を向こうに置いてきた。
 何もかもを東京に置き去りにしてきたおかげで、借りた一軒家の空白が寂しく感じてしまうけれど、それもいずれ慣れていくだろう。
 今はそう、静かに。穏やかに水たまりをつくる厚岸の梅雨のように過ごせれば――。

「……ぷゅ……こ…………」
 その声は突然やってきた。女の子の声、だった。
 洗濯機を回すモーター音、キーボードを叩く音、そして規則的に振り続ける雨音とは明らかに違う、人の掠れ声が耳に届く。

「誰? 誰かいるの?」
 画面から視線をどかして部屋一体を見渡し呼びかけてみるが、反応はない。それはそうだ。このだだっ広い一軒家には私一人しか暮らしていないのだから。
 幻聴? いいや違う。女の子の、それもなにか助けを求めるような声が確かにこの耳に届いていた。

 仕事部屋を出て木張りの階段を下りて、リビングの様子を窺う。雨が次第に弱まって、カーテンから陽の光が透けて見えたが、中庭にもそれらしき気配はない。
 まさかと思って風呂場にも足を踏み入れたが、洗濯機が無機質に回っているだけで何もない。
 何もない、誰もいないはずなのに、この胸騒ぎはなんだろう。

「ぷ……ゅ……ぷゅこ……」
 どこからともなく、またあの掠れ声が耳を撫ぜた。
 あなたはどこにいるの? どこから助けを求めているの?
 家中を駆け回り、それでも姿を見つけられない。もう探す先は玄関を出たところしかない。

「お願い、見つかって――!」
 祈るような思いで玄関を飛び出す。すると、そこには異質な存在が横たわっていた。
 届いた声の通り、女の子。ただし、到底普通の女の子ではない。
 家と倉庫の間にある人が一人通れるかといったわずかなスペース。
 中庭へと繋がる枯れ草の上に倒れていたのは、巫女装束をまとい狐のコスプレをした奇妙な少女だった。

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