大統領のメリケンサック

大統領は憂鬱だった。

テレビでは小さな半島に位置するある国の国営放送が流れている。

「我々の高貴な指導者たる大将様は今日も」

怒ったような口調の女性アナウンサーの声に、字幕が滑らかについてゆく。

「かの下劣なる敵国の主を倒すべく訓練に余念がありません」

太った小男が縄跳びをしている映像。

普段は綺麗に撫でつけられている髪は乱れ、呼吸は荒く、汗まみれで、

その周りで大勢の男が彼を賛美して万歳をしている。

「あいつは阿呆だ」

大統領は机を叩いて叫んだ。


「戦争をするくらいなら国のトップ同士が殴り合いでもすればいい」

始まりはそんなツイートだった。

「そんな試合があるならあたし最前列でヤジ飛ばしながら見たいわ」

小さな島国の片隅で、フォロワー数など大統領の10000分の一にも及ばない小娘の放ったこの一言が波紋を徐々に広げてゆき、

ついに大統領の目に止まった。


「下らない。バカバカしい。こんなバカなことを言うやつらを減らすためにも戦争をすべきだな」

それは精一杯の皮肉でありそれで幕を引いたつもりだった。

自らのそのツイートにより、大統領はリングに引きずり出されることとなったのだった。


「阿呆が」

吐き捨てるようにもう一度言った。画面では小男が、ほとんど脂肪だけの腕を震わせながら必死で腕立て伏せをしている。


簡単なことだ。

大統領は机の上にある、メリケンサックに目をやった。

相手は親の地位を受け継いで、のうのうと指導者の地位についたただのボンボンだ。

オレはメリケンサックをグローブに仕込むだけでいい。

ミサイル迎撃システムを整えるより安価で、なおかつ自らの勇姿を見せることで国民からの信頼さえも勝ち取れる。

国民の歓声を浴びる自分を想像し、憂鬱は簡単に影を潜め、大統領はテレビを消した。


「本日はお集まりいただきありがとうございます」

静かな声で、男は話し始めた。

いつもとはあまりに違う静謐さ、丁寧さに、集まった記者たちはどよめいた。

「わたくしが生まれたときから、道はすでに決められておりました。生まれながらにして人の上に立つ人間なのだと褒めそやされ、なんの苦労も努力もすることなく、生きておりました」

大統領は憂鬱だった。

リングを前にした記者会見で、カメラは一切大統領に向くことはなく、

対戦相手はただ静かに話し続けた。

「自分の手で、自分の体で、我が国のために戦わなければならなくなって、わたくしは、

とても怖かった」

男は静かにグローブを外した。

ファイティングポーズで写真を撮るために、大統領も男もグローブをしたままだった。

「それでも逃げたくはなかった。今日の日まで出来うる限りのことをしてきたつもりです。

わたくしに努力するという経験を与えてくださった皆様、

そして大統領に、心から感謝いたします」

男は深々と頭を下げた。そしてゆっくりと隣の大統領に向き直り、

「良い戦いをいたしましょう」

晴れやかに微笑んで握手を求めた。

グローブを外そうとしない大統領に、側近が慌てて近づいた。

大統領は不貞腐れたような顔で下を向いている。

グローブが外され、

大統領の指からメリケンサックが滑り落ち、硬い音を響かせた。

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