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短編小説「春代」~途中まで

俺の名前はK。ここは春代のボロアパートの糞みたいに狭い外階段。
春代は毎日ここをコツコツとヒールの音を目立たせながら昇り降りする。

朝陽が眩しい。何故俺がこんな所で独り太宰なんかを読んでいるのかというと、春代の帰りがいつもより遅いからだ。きっと今頃どこかの中年男とヴィラセンメイ辺りのベッドの中だろうか。

10月に差し掛かり、早朝は頬を冷たい風が切る。春代とは連絡もつかない。


春代と俺は3か月前、バイト先の先輩、東条が常連客だという、蒲田の西口にあるフィリピンパブで出会った。春代はそのフィリピンパブを仕切っている、所謂「ママ」である。歳は38と云っていたが、どうだろうか、妖艶な一糸纏わぬその姿は、40は過ぎていると密かに思っているのだ。

何故そんな一回りも違う女のことを、来るか来ないかわからぬ状態で待ち続けているのかというと、なんと俺はその女に惚れているのだった。初めて、一目見た瞬間から、俺の中の熱い鼓動は駆走った。


「おい、見ろよ。カワイコチャンだらけだろ?」と東条がビール片手に俺の耳元で声を上げる。店内は熱っぽい音楽と薄暗い照明で、いかにも怪しげな雰囲気だった。こういう風俗店に来るのは初めてではないが、フィリピンパブとやらは初めてだった。店内の女は皆フィリピン人なので、タガログ語と日本語が入り交じり、女同士の会話がどうにも俺たちのことを馬鹿にしているようでならず、俺は早く帰りたい一心で青いラベルの貼られた見たこともない温いビールをグラスに注いで一気に飲み干した。

すると、この場にはそぐわない流暢な日本語を、耳元で囁かれた。

「お兄さん、フィリピンのビールは氷の入ったグラスで飲むのよ」

驚いて振り返ると、先程まで隣にいた露出の激しい若いフィリピン女の代わりに、露出を控えた化粧の派手な日本人女が座っていた。「そんなに驚かなくてもいいのに…」俺があまりにも驚いた顔をしていたのか、日本人女は俺の手から空っぽのグラスを引っ張り、氷を並並と入れると、先程の温いビールを注いだ。
「はい、これ飲んでみて。美味しいから」女はにこやかにビールを差し出す。俺は無言のままビールをゆっくりと喉へ流し込む。味は、正直わからなかった。いや、どうでもよかった。

それは、この女の美しさに惚れていたからである。女に囁かれた瞬間から、振り向く前に、それはもう運命のように決まっていた。俺はその女が欲しかった。喉から手が出る程に。

「君、いくつ?」「あ…30…」「そっか、アタシはね、ハルヨっていうの、ここのママ、38よ」そんなくだらない会話をした。すると若いフィリピン女に夢中だったはずの東条がいきなり、「え!ハルヨママじゃん!なんでKの隣に座ってんのォ!ビックリした!ユキちゃん、シャンパン持ってきてヨ」と言うや否や、目の前にカフェパリがずらりと並び、ボックス席には溢れんばかりのフィリピン女達が座っていた。

「よォし!今日はハルヨママに乾杯だァ!みんな、どんどん飲んで!」と東条が言う。「オイ、おまえ、金はあるのかよ、大丈夫か?」と東条に言う。俺はここで一銭も払う気はなかった。「もちろん、今日は俺のおごりだから、心配するな」そう囁くと「ハイ!みんな好きなの飲んでね!あ、在庫なくなったらドンキで買ってきていいから!」と東条は言った。

どこにそんな大金を隠し持ってやがるんだ、此奴は…といっても、東条って奴ァ実は本職はお堅い建築士で、シングルファザーをやっている。子供が寝てからの時間、高級そうなマンションのすぐ近くにある、俺と同じチェーン店の牛丼屋で飲み代を稼いでいるそうなのだ。

というのは同じバイト先の女から聞いたハナシであり、実際のところ不明だが、45過ぎたオッサンが週4の夜勤アルバイト生活で生計を立てること、しかも毎週蒲田の風俗街で飲み歩くことなんてのは限りなく不可能だと思うので、信じることにしている。

東条と俺はあくまでバイト先の先輩と後輩の関係で、飲みに行く地域が偶然同じなので、たまにバイトのない日の夜に一緒に飲みに行くだけの仲だ。それ以上はお互い立ち入らないようにしている。東条はできた大人だ。俺のプライベートに全く関心を示さない。俺は東条のそんなところが好きだ。


そんなこんなで、記憶を飛ばす程酔った俺と東条。流石に蒲田のフィリピンパブ。ぼったくられてんだろうなァ、とうつらうつらしていると、「早く、こっちよ」と朝陽の昇りかけた靄のかかった薄汚いドブみたいな街中を誰かに手を引かれ歩っていた。雑踏から外れた裏路地にある、「青色申告」の文字がようやく読める半分に折れかけた立て看板を潜り「こっちこっち」と手招きする。その鈴のような声に釣られ狭く汚い急な階段をふらつきながら昇っていく。コツコツとヒールの音だけが響く。

ガチャガチャと女はバーキンからエルメスのキーケースを取り出すと、乱暴に部屋の鍵を開けた。中は狭く、6畳程の和室に、台所と、便所らしき扉があった。

ヒールをこれまた乱暴に脱ぎ捨てると、女は初めて振り返る。そうだ、こんな顔をしていた。店内は暗くてよくわからなかったが、まじまじと見てもやはり化粧が濃い。一体素顔はどんな顔をしているのだろうか。そんなことを考えていると「何してんの、早く靴、脱いでよ」と急かされる。

「お、お邪魔、します…」俺はじっとりとした真夏特有の室温とこういった古めかしいアパート特有の畳臭さを感じていた。「入って」女は台所の椅子にバーキンを捨てるように置くと、すぐに真っ赤なタイトドレスを脱ぎ始めた。「えっちょっ」俺が何かを発する前に、女は補正下着とアクセサリーだけの姿になっていた。

「脱がしてくれる?」女は言った。その瞬間俺は酔いが完全に醒めた。喉から手が出る程に欲しかった女が、なんと目の前にさあ食べてくれと言わんばかりの恰好でいるではないか。これは何かの間違いではないか。後でお金を請求されたりしないのか。色々な思いを巡らせようとしたが、本能は忠実だった。俺は貪るように春代の身体に食らいついた。

退廃的な写真と散文を書き綴るヒト。