本当の優しさとは?

コーチングを始めて、人とのコミュニケーションのなかで、言葉の定義についてより意識するようにしている。

同じ言葉でも人によって持っているイメージが微妙に異なるし、話がズレていく原因になるのが、このお互いの言葉の辞書の違いであることも多い。

私はなぜか【優しさ】という言葉にこだわりが強い。また昔に遡るのだが、十五歳年下の弟に対する教育(今思えば親でもないが、、)について、母と合わないなとよく感じていた。母はすぐに、「可愛そうだから」という言葉を使い、優しさは、単に一緒にいさえすれば良いというような捉え方をもっていた。少なくとも私にはそう見えることがある。私は、弟に優しさをもって接してきた自負があるが、その私にとっての優しさとは、彼が自立できるようになる接し方をすることだと考えていた。一生そばにいてお世話してあげられるわけじゃない。一人で生きていくのだから、困ったときに自分で解決策を見つけられなければ、1番そこで傷つき、困るのは弟自身だから。自分が親になった今、子供に対しても同じ思いで優しさをもって接したいと思っている。どこかで、私は母に、本当の優しさを持ってくれていないと思っているのかもしれない。許せていないこと、実はこれなのかな。だから、自分の子供には、そう感じさせたくないと執着してしまうのだろう。

思い返せば、私がこれまで所属してきたコミュニティーは、本当の優しさを大切にする人が率いている気がする。きっと私が大切にしたい、受けたいと思っている価値観なんだろうなぁ。コーチングで習った、自分のアイデンティティのなかで、1,2を争うほど重要な言葉、概念だと、最近強く思う。だから、心地よい優しさを感じる場所にしか、身をおけない自分がいる。

主人と結婚すると決めた理由もそうだった。本当の優しさをもっている人だと感じたから。私が困っているときだけ、手を差し伸べてくれる。実は私は若い頃結構やらかし系の恋愛が多く、今思えばフラフラしてたなぁと思うが、主人と出会ってやっと落ち着く場所を見つけた。

コロナによって、人の根深い価値観や、アイデンティティを垣間見る機会が増えているように感じる。これまで信用していた人に対してでも、それが揺らぐことも。これまで通りの人間関係でいられなくなることもあるだろう。でも、だからこそ、自分は何のためにこの人と関わるのか、明確にしておきたい。身を置く場所が大切な人を守れる環境なのかどうかも。

なぜ、こんなにも優しさというものに、こだわりがあるのか?前半にかいた母のことに加えてもう一つ。一番私の生き方を決めたある恩師からの一つの質問のせい。

当時医者になりたかった浪人生の私に、「ほんまに医者じゃないと人助けはできひんのか?」と一言。私が成し遂げたいのは、人助けなのか、医者になることなのかどっちなのだという質問。

コーチングを学んで振り返ると、これほどまでに私の人生に突き刺さっている質問はない。この一言で、私の人生の指針が定まった。だからといって、今私が人助けできているのかというと全然なのだが。。いつもこの言葉を思い出しては、本当の優しさのことを思う。

この記事をかいて、自分への戒めとし、改めて、人を助ける言葉、行動できているのか?自分への問いにしたくなった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?