今日の日めくり歎異抄の言葉22
今日の日めくり歎異抄の言葉
さまたげが
さまたげで
なくなる人生
念仏者は無礙の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障礙(しょうげ)することなし。罪悪も業報(ごうほう)を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。
(『歎異抄』第七条)
THE nembutsu is the single path free of hindrances. Why is this? To practicers who have realized shinjin, the gods of the heavens and earth bow in homage, and marars and nonbuddhists present no obstruction. No evil act can bring about karmic results, nor can any good act equal the nembutsu.
Thus were his words.
(A Record in Lament of Divergences 7)
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世尊我一心
帰命尽十方
無礙光如来
願生安楽国
われ一心に尽十方の無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。
O World-honored one, with the mind that is single
I take refuge in the Tathagata of unhindered light
Filling the ten quarters
And aspire to be born in the land of happiness.
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「帰命尽十方無礙光如来」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。「尽十方無礙光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界をつくしてことごとくみちたまへるなり。「無礙」といふは、さはることなしとなり。さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。「光如来」と申すは阿弥陀仏なり。この如来はすなはち不可思議光仏と申す。この如来は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。
(『尊号真像銘文』註釈版聖典651〜652頁)
Take refuge in the Tathagata of unhindered light filling the ten quarters: Take refuge translates Namo. It means to follow the command of the Tathagata. The Tathagata of unhindered light filling the ten quarters is A mida Tathagata. This Tathagata is light. Filling the ten quarters: Filling means going to the ends: completely. The light goes completely to the ends of the worlds throughout the ten quarters. Unhindered: unimpeded by the blind passions and karmic evil of sentient beings. Tathagata of light: A mida Buddha.This Tathagata is called the Buddha of light surpassing conceptual understanding and is the form of wisdom. Know that Amida pervades the lands countless as particles throughout the ten quarters.
(Notes on the Inscriptions on Sacred Scrolls)
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無礙光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけ
すなはち菩提のみづとなる
罪障功徳の体となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし
さはり: 悪業煩悩なり。悪業おほければ功徳のおほきなり
(『高僧和讃』曇鸞讃 註釈版聖典 585頁)
Through the benefit of the unhindered light,
We realize shinjin of vast, majestic virtues,
And the ice of our blind passions necessarily melts,
Immediately becoming water of enlightenment.
Obstructions of karmic evil turn into virtues:
It is like the relation of ice and water:
The more the ice, the more the water:
The more the obstruction, the more the virtues.
obstructions: karmic evil and blind passions. If the amount of karmic evil is great, the amount of virtues is great.
(Hymns of Pure Land Mastes, Master T'an-luan)
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無礙(無碍): さまたげがなく、自由自在であること。すべての事物が融和して互いにさまたげない 円融(えんにゅう)無礙と、すべての障りを自在に破する自在無礙の二義がある。(浄土真宗辞典)
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「念仏」と「念仏者」
『歎異抄』第七条は、念仏者は、さわりだらけの人生にありながら、そのさわりを超えて生きる道を与えられているという力強い領解を述べられたものです。さまざまな苦難に直面しながらも、それを超えて心豊かな人生を念仏のなかで全うじていかれた親鸞聖人の信念のことばですが、同時にまた南無阿弥陀仏(帰命尽十方無礙光如来)と念仏しながら生きる私どもの一人ひとりが、自らの人生を通して確認しなければならないことがらでもあります。
ところで、はじめに「念仏者は無礙の一道なり」とある文章について、これはもともと「念仏は無礙の一道なり」と読むべき文章だったのではないかという説があります。漢文では「者」を「しゃ」と読んで「ひと」をあらわすだけではなく、「然者(しかれば)」のように「は」と読む場合もあります。いまも「念仏者は」の「は」は「者」を「は」と読むということを知らせる送り仮名だったのではないかというのです。それというのも「念仏者は無礙の一道を往く者なり」とでもあるのならば、「念仏者」という「人」をあらわすことになるが、「無礙の一道」という「法」をあら!わすのならば「念仏」が主語にならねばならないというのです。
たしかに「無礙の一道なり」という述語句に対すれば、主語は「念仏」でなければならないようです。しかし「念仏者は無礙の一道なり」ということの理由を述べるにあたって、「そのいはれいかんとならば、信心の行者には・・」と「信心の行者(念仏者)」を主語とされています。そこからみると、「念仏者は無礙の一道を往くものなり」ということを省略して、「念仏者は無礙の一道なり」といわれたとみることもできましょう。ともあれ第七条は、念仏は、神々と悪魔を超え、どんな思想信仰にもまどわされない智慧の眼となるものであり、また人間のあらゆる善悪のいとなみを超えた無上の真実ですから、この大道を歩む念仏者は、なにものにもさまたげられることなく、生死の迷いを超脱していくのだといい切っていかれたものです。
聖典セミナー『歎異抄』梯 實圓師
「無礙の一道」205〜206頁