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会いたいときに会え、話したいときに話せ、やりたいときにやれ、そのうちなんてこないかも。

(これは今年あったことのお話です)

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世の中には人がたくさんいて

大抵の出会う人はその時の自分の状況、環境、などに左右されて人付き合いは行われる。


でも唯一それに当てはまらないのが、家族って存在だと思う。


恵まれたことに私は両親がいて、両親それぞれの祖父母がいて、子供の頃は確実にみんなに愛されて育ったと思う。

人の最後に初めて遭遇したのは小学校4年か、5年の時。


小学校4年性の時に父の転勤で関東にくるまで、ずっと石川県の金沢で、週末はどちらかの祖父母の家にいくのが日課だった。

母方の祖父母は二人とも元公務員で海外旅行もいくし、習い事や趣味に大忙しで人付き合いも多いアクティブなおじいちゃん、おばあちゃん。話もとっても面白い。多少の持病はあれど、二人とも今でも元気に暮らしてる。


父方のおじいちゃんは釣りと競馬とパチンコが趣味。今考えると割と強めな趣味だな笑。

でもとっても優しかった。よく車で近くのショッピングセンターに連れて行ってくれて、ゲームセンターに行ってはいつもこっそりお小遣いをくれて、遊ばせてくれていたし、欲しいものをよく買ってくれた。父が注意するほど孫に甘々だった。おじいちゃんは多分口下手で、話で何かするより、遊ばせて孫たちが喜ぶことが楽しかったんだと思う。

おばあちゃんはどちらかというとゆったりしていてお手玉だったり折り紙だったり、昔ながらの遊びを教えてくれた記憶がある。近くの飴屋さんでじろ飴っていう水飴をなくなるたびにお土産に持たせてくれたし、隣が八百屋さんだったので夏はよくアイスを買いに行ってたな。



転勤で引っ越してからも、頻度は減ったものの、お正月とお盆は必ず帰省していた。


ある時の夏休み、いつものように金沢に帰って、父方の祖父母の家にとまっていた。


あんまり状況は理解してなかったけど、父方の祖父は何年か前からガンですでになんども病院で入院していて、その時は自宅で寝たきり状態だった。多分、最後だからと家でゆっくり過ごすことになっていたのかもしれない。

昼下がり、近くで妹と母と三人で散歩に行った帰り道。


母の携帯に電話が一本。


映画の演出みたいに、夕日の色と蝉の声だけが耳に残っている。


それからはめまぐるしく状況が変わって行った。

家に着いたら、お医者さんがいて、大人がバタバタ出入りして、みんな黒い服に着替えて。

気が付いたら葬儀場にいた。親族のみ、葬儀場に一晩泊まるのだ。


夢を見た気がする。なんでか忘れたけど、泣いちゃいけないと思った。

だから、涙を流さなかった。悲しくなかったわけじゃない。ここで泣いちゃいけないって思ったから、泣かなかった。理由は覚えていない。

これにはあとで後悔した。なんて冷徹な人間なんだろうと思ったこともある。今は多分その時はそれなりの理由があったんだろうなと思っている。

目の前で淡々と儀式の映像が流れていく。いつの間にかお墓参りにいくのが毎年の帰省した時の習慣になった。


それがもう15年くらい前の記憶。


よく考えたら、あんなにも無条件に可愛がってくれる存在はなかなかいない。母方の祖父母も優しいけど、いとこもいるし、厳しくするところと甘やかすところにメリハリのあるタイプ。

初孫で、私と妹以外孫がいないから、そりゃ可愛かっただろうなと思う。

そして残されたおばあちゃんは最初こそとても寂しそうにしていたけれど、少しずつ慣れて行ったようだった。それでも、前に比べたらあまり出かけなくなってしまった。

遠出はできないけれど、父や叔母の車で近くのお寿司屋さんに行ったり、兼六園や21世紀美術館に行ったりした。お料理は好きで美味しいご飯をいつも作ってくれる。おばあちゃんの作る少し甘みが染み込んだ肉の年越しそば味が特に好き。笑うととっても可愛らしい笑顔をするんだ。すごく癒される感じ。

そんなおばあちゃんがいたからおじいちゃんがいなくなっても私はあんまり寂しいと感じていなかった。

最近あったのは一月。

その時も素敵な笑顔を見せてくれた。

ここ最近は年に1回帰ったらいいかなくらいの感じでいたので、1月に行ったし、夏はいいかな、と思っていた。

でも急遽、金沢にいくことになった。


****ここからすこし重たくなります。注意


おばあちゃんが、脳梗塞で入院して、もう意識がないらしい。

どうやら、今すぐにどうこう、というわけではないみたいなんだけど。
意識は戻るか、わからないらしい。

持病の関係もあって、消極的治療状態って奴らしい。

家族の都合もあって、すぐにいくことはできないから、帰るのは月曜夜からになった。

ちょっとそれを考えると泣いちゃうからさ、何にも手につかなくなっちゃいそうだからさ。全力で元からあった予定には意識を持っていくよ。じゃないとなんにもできない奴になっちゃう。せっかくやっとそこそこちゃんと充実した社会人してるよって言えるようになったから。

ごめんね。おばあちゃん。絶対に生きて会おうね。もうちょっと頑張ってね。できればお話しようね。

いつも見送ってくれるときにもう一生の別れかってくらい涙をボロボロ流してくれるおばあちゃんへ。まだダメだよ。

*****

このノートを書いたのは8月のお盆が過ぎた頃。
金沢に向かう新幹線の中で。
ここからは12月21日に書いている。

この後おばあちゃんに生きてる状態で会うことができた。

でももう、喋ることも目を開けることもできない状況だった。

ベッドに横たわっていて、息はしている。
その状況を見ているだけで涙が止まらなかった。

でも、今、残さなきゃいけない。ような気がした。
わたしが写真を撮れるようになったのはこのためだったのかもしれないって使命感を感じて、少しだけ動画と手の写真を撮った。

その動画は撮ったきりでみれていないし、

手の写真はピントがあまり合っていなかった。

当たり前に動揺していた。

すぐにカメラはしまった。

意識はあるようで、家族でベットを囲んでいたら周りに人がいることがわかったのか、心拍数がとても上がって、息も上がっていた。

でもおばあちゃんからしたら誰の声とかもうわかってなくて、ただ聞こえてる状態で、でもきてくれたことが分かってて、目を開けたいのに目が見えないし、口も動かせないって状況だったらしい。

見えないはずの目がすこしあいて、涙があふれていた。

もうこれ以上良くはならない。そう。
呼吸ができなくなった時、呼吸器をつけて延命しますますか?ときかれて、父はつけないことにしたそうだ。

苦しいのが長引くだけだから。

もう誰も何もすることができなかった。
誰も反対しなかった。
なるべく苦しくないで生きててね。
ただ願うだけしかできなかった。

でもその割に容態は安定していたそうで、いったんまた母と東京にもどることになった。

そうして、戻ったらいつもと変わらない日常で、仕事に追われた数日。
まるで何もなかったかのように。

それから数日後の真夜中に、家の中が騒がしくなって目が覚めた。
ほどなくして母が部屋にやってきて、おばあちゃん亡くなったよ。と。

そこからはあんまり結構記憶がない。

いや、すぐお葬式じゃなくて、お通夜があるけど、すぐにはわたしは帰れなくて、お葬式に間に合えばいいからと後から妹と2人で新幹線で向かった。

葬儀場についたのは夜中の12時を回っていた。

一度棺の前に行ったけど、その時は顔を見ることができなかった。
そのあとも寝る前に一回見てこようとしたけど、どうしてもまだみれなかった。

その日は仕事がとてもつまってて、葬儀場ついてからも作業した。寝たのは3時とか。

まだ寝不足のまま朝はやく起きて支度した。
受付係を受け持った。

代わる代わる顔をあまり知らない親戚や、ご近所さん、ゆかりの人がやってきた。
最後に母方の祖父母がやってきて、すこしだけほっとした。

葬儀が始まって、お経などが終わって、最後に喪主の父の挨拶があった。

わたしの父親は子供に涙を見せたことがこれまで一度もなかった。

隣に並んでいたので顔は見ていないけど、声が震えていた。

父のそんな姿ははじめてで、親族として一緒に挨拶するのにきてくれた人たちの方をわたしも向いていたけど涙が抑えきれなくなって下を向いてしまった。

そのあとやっと、とても綺麗にお化粧されたおばあちゃんの顔を見た。

みたことないくらい若くなっていて、お花を添えられてすごく綺麗だった。

おばあちゃんはザおばあちゃんな顔しか知らなかったんだけど、若い頃はなかなかに美人で有名だったそうだ。

お花を置く時、額に触れたけど、とっても冷たくなっていた。


その時期、慣れてない仕事がはじまったばかりで、本当に落ち込んでいる暇がない状況だった。

わたしはHSPの性質をもっているので、ものすごく、敏感でささいなことに影響されやすい。

ただでさえ、突然祖母が亡くなって、とてもショックを受けていた。

その後に火葬場にいって、火葬して、最後に骨を崩してツボに入れるという儀式?がある。

十数年前に小学校二年生のときに祖父が亡くなったとき、そのときの記憶が鮮明にあって、フラッシュバックを繰り返していた。

あの頃はまだ記憶も曖昧だけど、今祖母が骨になっている。という状況を目に焼き付けてしまったら、もうなにも手につかなくなってしまう気がした。確実にその映像を覚えてしまう。

どうしても、それができなくて、最初すごく怒られたけど、わたしだけ骨になった後のお部屋に入るのを拒否させてもらった。

理由を説明した。

すごく久しぶりに親の前で泣きながら説明した。

ら、許してくれた。

非常識と言われるかもしれないけど、どうしてもあの時はできなかった。し、やらなくてよかったとおもっている。


でも悲しい話ばかりではなくて、火葬場にいった時、親戚の方が昔の写真をいっぱいもってきてくれていて、はじめて、亡くなった祖父母の若い頃の写真をみた。

ふたりはどちらも養子で、おばあちゃんはおじいちゃんのことが本当に大好きだったそうだ。

おじいちゃんは17年前に亡くなった。

わたしは覚えていないけど、亡くなってからおばあちゃんはとてもおばあちゃんぽくなってしまったそうだ。全然外に出歩かなくなった。

父のスピーチで知ったけど、そのあとよく生まれ変わったらまたおじいちゃんと一緒になりたい。と言っていたそうだ。

そんなにも想っていたんだと、その時はじめて知った。

若い頃の写真の中に、やっとカメラが普及してきた頃にとられた写真があった。

川辺でおばあちゃんがポージングしていたり、おじいちゃんが車の前でカッコよくたっている写真。

ふたりともトレンディドラマに出てくる俳優のようだった。

よく2人で出かけて、写真の撮り合いっこをしていたそう。

とても衝撃だった。

だって家族はわたし以外こんなに写真に夢中になってる人はいない。

なんだか、ちゃんと繋がっているんだなと思えて嬉しくなった。

そしてその2人の素敵な写真と恋の物語。

それがわたしのおじいちゃんとおばあちゃんなの?って思ったらなんだかすごくほっこりした。

お葬式の帰り道はそんな話を聞いたので、頭の中がすこしメルヘンに持っていかれた。

だって、やっと、ふたりは17年ぶりに会うことができたのだ。なんてロマンチックなんだろうなんておもってしまった。

『大好きなおばあちゃん、やっとおじいちゃんに会えたね。よかったね。これからは2人で見守っててね。』

そうやってそっと祈りを捧げた。

*****
(ちなみにこのときの脳内BGM:クオリア/UVERworld)

(今思い出したけど、小中の頃1人で孤独を感じてた時、よくおじいちゃん空で見守っててねってがんばるからねって思ってたなあ。今度はふたりなんだなあ。)

葬儀が一通り終わって、こっちへ戻ってきてから、本当に怒涛の毎日だった。

49日になるのもすぐだった。

10月に帰ってからは帰省はしてなくて、もう今年も終わる。本当に怒涛で一瞬だった。

いつもは亡くなったおばあちゃんの家に金沢に帰ったら行っていたけど、もう、あまり行くことがなくなってしまう。
家自体もどうなるかはわからない。
母方は健在だし従兄弟もいるので金沢には時々帰るけど。


あ、今の私は振り返りができるくらいに回復しているから大丈夫です。

わざわざこんな話を公開するかはすごく迷ったけど、今年一番重大なニュースで、でもひさびさに家族団欒できたりしたし、悪いことばかりでもなくて。

とりあえず、記録のために書いてみた。

今できていることもいつできなくなるかわからない。だから今やれることは全力でやりたい。

なんだか今年は特に別れが多くて、変化も多くて、ものすごく心も乱れたけど、確実に一年前の自分より大人になれてる実感はあって。

会いたいって思う人には、会えるときに会いに行くべきだ。

チャンスがあったら飛び込んでみるべきだ。

知らない人ばかりの大勢の人の輪が結構苦手なんだけどあえて定期的に飛び込むようにもしている。

新しい発見があるから。


そして今週はUVERworldのライブに行った。

ここで多くは語らないけどいろんな想いが溢れて泣いた。

TAKUYA∞の言葉が真っ直ぐに響いて、なんかもっと素直に生きたいとおもった。

最近SNSよくわからなくなっていて、すこしツイートも息苦しかった。
おばあちゃんのことがあってから、表に出してもなと思って、そしたらそれからめちゃくちゃいろんなことを押さえ込んでいた。

でもなんかそれやめる。もやもやする。

好きなことは好きって言いたいしやりたいことはやりたいって言いたいし思ったことはある程度自由に言いたい。

というか、もともと、そうやってたのに。

軌道修正したくて、ずっと下書きに置いていたこのnoteを公開してみる。

言わないことが多いとすごく人に誤解されやすい気がするから2020はもうちょっとわかりやすい人になれるようやってみるね。

初期98%女子だったのに10年やり続けたら、東京ドーム45000人男で埋められるバンドにもなれるんだよ!!って魅せられた。(男祭りは行ってないけど)響いたなあ。よかったなあ。語りたくなっちゃうからUVERのこと聞きたい人もぜひお待ちしております🙆‍♀️

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