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1998.4.10 AM3:00~history of hide~

大好きなhideちゃんの24回目の命日
今年は7月8日に映画『TELL ME~hideと見た景色』が公開されます
予告見ただけでも泣きそう、、

色々な想いを整理して精神を落ち着かせるべく、hideちゃんがこの世に存在していた直前の肉声の文字起しをしようと思いました・・(写経みたいなもん)

X時代にはまさかhideちゃんがこんなに喋る人だとは思っていませんでした(本人は話すのは苦手とのことでしたが、凄く聞きやすい)
そして彼の話し声はとても耳心地が良いことを知りました
面白いのは一人称が「わたくし」「わたし」「僕」「俺」と多岐にわたるところ、、「わたくし」の時はだいぶ緊張気味、「俺」となるとだいぶリラックスしてるのではないかなぁと^^

全4回しか放送されなかったhideちゃんメインパーソナリティーのラジオ番組ですが、hideちゃんが詰まっていて、ファンじゃない人にも松本秀人という人となりが解ってもらえますね、きっと

以下、第一回目の放送分(テーマは「history of hide」)から抜粋です

ご挨拶

hideのオールナイトニッポンR
こんばんは、hideです
今夜から毎週金曜日のこの「オールナイトニッポンR」は、わたくしhideが担当することになりました、よろしくお願いします
あのですね、あのわたしが“お前誰だ?”と思っているかと思うんですけど、あの、去年の暮れまではX JAPANという、とても怪獣のようなバンドに所属しておりまして、そこの上手(かみて)の方でギターをずっと弾いていたんですけれども
そのわたくしがなんの由縁(ゆえん)か、この「オールナイトニッポンR」で何かしゃべくらかしていただくことになりました
実は、わたくしは今ですね、あの、自分の・・そのX JAPANを離れましてですね、hide単体として活動することになりましてですね、今ずっとレコーディングでロスにいるのです
それでですね、ロスでずっと・・今月はずっとロスでレコーディングをしているので、ここでしか手に入らない情報や音楽もたっぷりと聞かせられたら良いかな、と思っているので期待していてください

LAのスタジオにて収録
打合せ中・・

え~と、今夜の放送は“history of hide
え~と、わたくしが今までどんな音楽を聴いて、どのように今のようにプロになったかということを自己紹介も兼ねて話していきたいと思いますので、おききぐるぐぉ・・・お聞き苦しい点は多々ございましょうが、2時間最後まで聞いてください
それじゃあ、まずこの曲から・・
わたくしの一番新しいシングルで、5月13日発売「ピンクスパイダー

自己紹介

今夜から始まったhideのオールナイトニッポンR
え~と、一体わたくしはどんな人間なのか、みなさん、お聞きになっているあの、ドライバーのみなさんとか思ってらっしゃるかと思うんで、自己紹介から始めたいと思います
えっと、本名松本秀人(まつもとひでと)
え~とですね、現在は30なにがし・・・で、本業はですね、ギタリストなんですけども、えーと、もともと所属してましたX JAPANというバンドから離れましたので、あの、歌なんぞも歌っておりましてですね、曲なんぞも作っております
で、ですね、どのような音楽の趣味かといいますと、基本的にいわゆる世の中で言われているあの、ジャンルと言うものは別になんも気にしていないんですけども、元々はですね、あの、やっぱり洋楽育ちと言いますかね、英語圏ではない国で育ったあの洋楽ファンです
元々はKISSが好きであったりとかっていうところから、割とロックンロールに目覚めまして・・
で、そのロックの目覚めの頃っていうのはですね
わたくし、今では人前に立って、あのー、踊ったり歌ったりギター弾いたり平気でしているんですけども、子供時代、ロックに目覚める前後はですね、あの、とてもとてもお見せできないようないわゆる肥満児でして・・
あのーー、体脂肪率何パーセントか知りませんけども、あの、いわゆる学校とかで、小学校とかで「お前、太りすぎだから走れ」っつって、飯食った後にあの、無理やり走らせられてしまうような
割と絵に描いたような肥満児でして・・で、別に勉強がすげーできたワケでも無くて、なんか、、なんてことない学生時代だったような気も・・・

小学校時代


中学時代(ロックとの出会い)

中学生のある日に、KISSを友達のうちで聴かせられたんですけども、最初はそのKISSの毒々しいメイク・・KISSって血吐いたり、火吹いたりするバンドなんですけど、そのKISSのルックスが、ど~うしてもなんか気味が悪くて聴けなかったんですけども、しばらくそのー、録ってもらったカセットテープを家にほっぱらかしといて、暇だから…と思って、パッとそのほっぱらかしにしてあったテープを聴いて、「なんじゃこりゃ!」ということになりまして、それまではオモチャですとか、何かそういう形のあるものとか、プラモデルとかにしか興味を持たなかったんですけども、初めて、その形の無い“音楽”っつーものに、なんかこう雷を打たれまして、そしてあの、“あっ!僕はロックンロールをするために生まれてきたんだ!”と勘違いしてしまいまして、そこからわたしのあの、ロックンロール人生が始まってしまった訳なんですけども
で、そうこうしているうちにやっぱり、そんなデブな松本もですね、あの~、いつしかあの~、KISSのビデオとかも観るようになり、KISSに心底入れ込んでって、ファンクラブにも入り・・そしてファンクラブに入ってファンクラブの申込書を書いたら、いつまでたってもその会報が来ないんで、毎日郵便屋さんを追っかけていたような日々が続くんですけども(笑)
それでどんどんどんどん入れ込んでいって、KISSっていうのはわりとTHE ROLLING STONESやTHE YARDBIRDSとか、そういうバンドから継承したグラムロックなんだということを知り、そしてT-REXなども知り、そして同時にその頃押し寄せてきたわりと、パンクロックにやっぱりやっぱり雷を打たれていくのです・・

ルーツはグラムロック

初めてのギター(ギブソン・レスポール)

それでなんだかんだ言って、そうやってビデオとかいろんなもの観ていくうちに、自分でもそのギターを弾いてみたいなんていう無謀なことをだんだん思い始めまして、、KISS・・に合わせてですね、部屋の中でバドミントン・・その当時、わたくし、テニス部になんぞ所属しておりまして、デブのくせにwラケット持って、ガシャガシャ弾いてるマネをしてて、お母さんが急に入ってきて恥ずかしい思いをしたことが数え切れず・・え~、、うん、そんな感じで、わりと…過ごしていたんですけども・・

中学生の頃

で、どうしてもギターが欲しくなりまして、えーあの、おばあちゃんに・・・
その頃僕、すごいおばあちゃん子だったんですけど、おばあちゃんはね、何でも買ってくれたんですよ
ミクロマンの基地とか買ってくれましたし、、
そのおばあちゃんに、やっぱり、中学3年の時に泣きつきまして、「おばあちゃん、ギブソン・レスポールが欲しいよ」と言ったんですよ(笑)
そしたらおばあちゃんが、、おばあちゃん、当時、米軍基地の中で働いてたんですけど、働いてたっていうか、出入りができたんですけどね、、おばあちゃん、もともと美容師なんですけども、そのおばあちゃんが米軍基地の中で買ってきてくれたんですよね、、なんと、こともあろうに、中学生のわたしにギブソン・レスポールのデラックスを!
いくら(値段)はね、ちょっとわかんないんですけど、多分ね、当時、、当時僕の感覚からしたら、あのなんでしょう、なんだかよくわかんないけどカウンタック買ったような感じですよね

ギブソン・レスポール=カウンタック(笑)

んで、田舎の町だし、田舎の学校だし、田舎の子供だから、わりとそりゃあねぇ、“ギブソン・レスポール来た!”ってことはすごいことで
たぶん、ギブソン・レスポールは僕の町内には1本しか無かったと思うんですよ(笑)
そんな友達とかたくさんいた中学生じゃなかったんですけども、その日からすごいですよ、、もう、もう隣町からみんな来ますもん!
あの、その僕のギブソン・レスポールを見に!!
で、見るだけなんですけどね、、だって僕、弾けないんですもん
まだ何も弾けないのに(笑)毎日もう、とめどもなく色んな人がやってきたりとか、年上の高校生とかがやってきたり!
玄関に来て、それでそのたんびに見せて、「弾いてもいいか?」っつったら「あーどうぞどうぞ!」っつって
「何か弾いてくれ」って言われると一番困ったんですけどね

で、そんなこんなしてるうちにはですね、中学も卒業して、、
その当時はやっぱりバンドできなかったんですよね、なんかやってる人もすくなかったしっていうこともありまして・・
えーと、そんな中学時代でした
暗い暗い中学時代でした
そんなわたくしも4月にバンド活動できるようになることを望んで(笑)

わたしが今、LAでやってるバンドで「zilch」っていうのがあるんですけど、それの曲を聴いてください
zilchで「ELECTRIC CUCUMBER」

高校時代(バンド結成)

それで、その謎の・・謎の悲劇の中学時代を卒業しまして、やっとのことですね、高校ってのは文化祭もあって、わりとデカいステージでギターなんぞ弾いて、そういう友達と巡り合えるのかなぁっなんて思ってたら、入った学校が“エレキギター禁止”って生徒手帳に書いてありまして、なんということだ!という・・このあと見渡す3年間っていうのが、僕にはもう灰色にその時見えてしまったんですけども・・
でも僕が、地元が横須賀なんですけども、あのー、、“どぶ板ストリート”というところがございまして、、そこは割と米軍基地にほど近く、あの~、ミッドウェイとかがやってきて、割と異国情緒というか、もうなんでしょう、あの、“無頼漢”がそこらへん練り歩くような、あの~、物騒なストリートだったんですけども、、

当時のどぶ板通り

でわりと、横須賀の、あの普通の良識ある家族の親御さんたちとかっていうのは「あんなとこ行くんじゃない」と、、「あんなとこ行くと首を切られるぞ」とホントに言われてたんですよ、僕たちは・・
でも、やっぱり田舎の保守家族に育った、保守的な子供だったので、あの~、昼間ぐらいしか通らないし、あの~、通ったとしても、あの走り抜けて!行くぐらい(笑)、、そんな感じのところだったんですけども・・
中学時代に、一人友達がいまして、あの横山という、あの今でも頑張ってるUNITEDというヘヴィメタルバンドがいるんですけども、、その彼が別な高校でガンガン、バンドやり始めてすごく羨ましく思ったんですけども、その関係で、別の高校の友達とかを紹介してもらったんですけども、、
で、その友達っていうのが、その一番ヤバいなって思ってたどぶ板ストリートのクラブの辺で遊んでいる奴で、、

で、そいつと「バンドやらないか?」みたいな話になったんで、そいつと会う為にそこのライブハウスに行ったんですよ
そして・・僕の他にあと4人いたんですけども、それで1人ずつ会っていくんですけども、どう考えても髭は生えてるし、髪の毛はもう肩より長いし、なんかベルボトムにロンドンブーツ履いてる松田優作みたいな奴出てくるし、どう考えても僕と同い年には見えなかったんですけども、、
まぁ、なんだかんだ言って、結局そいつらとバンドやることになりまして、で、そこのどぶ板ストリートっていうところのあの“ROCK CITY”という、もう今では無いライブハウスなんですけども、そのライブハウスに出入りするようになって、その、バンド仲間が初めてできたんです
本格的に、、本格的にと言うか、バンドの形態で始まることができたのが、高校2年・・か3年ぐらいですね
僕ですか?僕はですね、いや、なんでしょう・・そんなどんな格好ってほどの恰好もしてなかったですよね、、
だけど、僕のその会ったバンドの友達っていうのは、結構そういう感じで、結構もうその当時から革ジャン?革ジャン、ベルボトム、ロンドンブーツ?もうロックンローラーな恰好をしてたんですよ
う~ん、僕はそんな・・でもなかったんですけどね
で、まぁ、だんだんそこに入り浸るようになっていくうちに・・あの~、僕まだ太ってたんですけども、だんだん痩せていっちゃいまして、、
ええ、、あのですね、多分今思うとですね、たまに僕、たま~に実家に帰るんですけど、たまに実家帰った時に、自分の実家の食卓に並ぶ食材を見て、わかりました、僕は、、結局食い過ぎだ!(笑)
やっぱり、そういう夜の街に遊びに行くようになると、必然的に家でご飯食べる回数が減っていくんですよね
で、タバコとか買いたいからってお金もらってもそれをそっちに回したりとかなんか、、するようになって、なんかどんどん痩せちゃったんですよね

ROCK CITYにて

それで、最初のステージっちゅうのがあるんですけども、そのバンドで割と「派手にいこう!」ってのがあったので、、あの『SAVER TIGER』(サーベルタイガー)って言うんですけども
あの~、それが僕がつけた名前じゃないんですけども、あのー、結局、なぜか僕が曲を作ってたりしたので、僕がリーダーになってしまったんですけども、、なんだかんだ言いながら、、
で、派手に行こうぜ!ということで、割と当時はですね、僕以外の人たちは、パンクロックというよりはあの、ヘヴィメタルなものとか志向してアメリカンハードロックとかを志向していまして、あの・・スパッツですか?今でこそロックショップとかに行くと、割とあの、スパッツっていう、細~いピターっとしたレオタードですね、あれを売っているんですけども、当時なくてですね、それが・・あの~、やっぱ、、やっぱ気合の入ったロックバンドはスパッツだろう!ということになりまして・・(笑)
みんなで渋谷のチャコット(※バレエ用品店)に・・チャコットのレオタード買いに行ったりとか(笑)

chacott

割とおばはんの?おばはんの洋品店にあるじゃないですか、商店街とかにある、あの安っちぃ・・安売りの、、
ああいうところに行くと意外とあったんですよ、黒のレオタードが・・そこに買いに行ったんですよ、で、それぞれみんな試着してくるんですよ、みんなそれぞれ「あ~、すげーロック~!」とかって言ってるんですよ
で、僕、試着室に入ったんだけど、まだなんかデブの名残りがあって、太ももパンパンだったんですよね、、で、ちょっと人に見せられなくて、そのまま「うん、俺も大丈夫だった」って、それ買って帰ってきたんですよ
最初のライブの日まで、僕はそれを部屋に・・部屋に飾って、それを指さして、「履いてやるぞ!この、、レオタード!」って言って当日まで頑張ったんですよね、、そこは、ちょっとの期間だけちょっとダイエットらしいことしましたけどね、うん、、
そんな時に、周りでそうやってロックバンドに、ロックを好きな友達とは会えたんですけども、割とパンクロックを聴く人が少ないのが、当時は悲しかったんですけども
当時、割と自分の中ではアンセムだった、あの少年の心を奮い立たせてくれた曲が、え~、、THE CLASHで「SAFE EUROPEAN HOME」

SAVER TIGER

そういう感じでバンドを始めていったんですけども、なんだかんだ言って、僕、単純にオリジナルを作ってたのが僕だからという理由で、割とリーダーだったんですよね、そのバンドは・・
なんですけど、やっぱり人間関係をこう、収めるほどわたし、人間できてなかったし、そういうところが一番苦手なところだったんですよね
なんですけど、だんだんだんだん欲が出てきますよね、バンドを始めてると、、あの上昇志向と言いますかね、こういう曲をやりたい、ああいう曲をやりたいとか、、その為にはこういうテクニックが必要であるとか、そういうことが出てきたりとか、、やっぱりアイツが好き、アイツが嫌いとかっていうことも出てきますよね
そういう場合にわたしがどうしたかといいますとですね、わたしと同じ意見の人をメンバーの中で探し出すんですね
で、そいつに言わせるように仕向けたりとかですね、割と本人から退くように仕向けたりとかですね、悪魔のような采配を振るっていた当時なんですけども…うん、、
そんな中で、でも、どんどんどんどん、オリジナルメンバーが自分一人ぐらいになっちゃいまして、、どんどんどんどんメンバーとかも変わりまして・・
割とホントにあの理想的なメンバーに最終的にSAVER TIGERで出会えたっていうのは、えーと、今は、前DIE IN CRIESというバンドでやっていて、現在ソロのKYOちゃんと、あとCRAZEっていうバンドで今はドラムをたたいているTETSUっていう男と、あともう死んじゃったベーシストが1人いて・・TOKIHIKOという凄い素晴らしいベーシストがいたんですけども、それでその彼と、もう一人、今では歯医者をやっているREMという男で、5人でSAVER TIGERっていうのができて、それで東京に出てくるようになりまして・・

上段左からKYO、TETSU、TOKIHIKO、REM、HIDE
横須賀サーベルタイガー

そこからは本格的にもう、プロになろうとしていた時期ですね、で、“このメンバーが崩れるんだったら、僕はもうバンドを辞める”って思っていたのが、このメンバーの頃ですね

これで割とライブハウスに出るようになって、東京のライブハウスにちょくちょく出るようになって、、東京近郊とかもちょろちょろ出るようになって、、割とその東京のバンド関係の人脈とか打ち上げとかで…Xの噂とか、、Xはもう全然活動してましたから、超有名でしたから、その界隈でも
で、そのXの恐ろしさとか、会ったことはないんですけど、噂は凄いんですよ、打ち上げに4千人ぐらい来るとか(笑)
それまでは横須賀で、なんかひょんなことに「東京のライブハウス鹿鳴館に穴が1個できたので、代わりの穴埋めに出ないか」って言われたのがきっかけで、だんだん東京に出てくるようになったんですね

YOSHIKI(X)との出会い

で、そういう感じで、東京でやり始め、ライブハウスにちょこちょこ出始めたのが、20歳(ハタチ)とか19歳(ジュウキュウ)のころだったと思うんですけども、、
当時はですね、僕は美容学校に、、六本木のメイ・牛山の経営するあの~、美容学校に通ってて(笑)美容師を目指してたんですよね。美容師を目指してたというよりも、家が、おばあちゃんが美容師だったので、なんか美容師やっとけ~みたいに思・・っていたんですよね

美容学校時代

で、美容師で稼ぎながらバンドやっていければいいなと、軽く思ってたんですけども、、
そんなこんなで、その美容学校時代に結構僕、凄いドラマがありまして、誘拐されたりとか、いろんなことあるんですけど(笑)それはまた次の機会に(笑)話、長くなるんで・・
で、なんだかんだ美容学校卒業しまして、そのベストメンバーでもうプロになっていこうって思ったのが、美容学校卒業したくらいですね、20いくつだと思うんですけども、、その頃にはもう自分で“ハサミはお金の為、バンドは夢の為”っていう風にわりと割り切って、ずーっとやっていこうと思ってましたね
で、その当時やっぱりライブハウス界隈、割とヘヴィメタルっていうか、ハードロックをやってて避けて通れないのが、“Xの噂”みたいな感じなんですよね(笑)
わりと、、何だろうなぁ、僕は結構長い間、Xは知ってたけど、長い間会ったことはなかったんですよね、で、彼らはわりとテレビとかも出てましたし、、あの「元気が出るテレビ」とか出てましたし、わりと「上海紅鯨団」とかにも出てましたし、わりと胡散臭かったですね、傍から見てても・・・やっぱり真面目にやってるロックバンドからしてみたら、なんか“テレビに出やがって”とかって思わざるを得ないような部分はありましたよね、うん
で、噂もね、ほんとにXのことを良く言う人っていうのに僕は会ったことが無かったんですよね
だから、半ば僕も洗脳されてて、あの、「ああ、そうなんだー」と思って…
あの当時は、インディーズバンドとかっていうのは、今でもそうでしょうけど、対バン形式なんですけども、、その当時にやってたバンドはほとんど一緒にやったことあるんですけど、Xだけなかったんですよね
ライブハウスの人が「やめとけ」って言うんですもん(笑)やめとけと、、素行が悪いからっていうのと、暴れるっていうのが一番だったんですけども、、
でもね、多分ね、結構みんなね、今から考えると羨望からだったと思うの、やっぱりね、そんな感じで結構恐れてたXなんだけど、1回会ったんですよね、初めてYOSHIKIに会って、、
僕も何回かXに・・Xもメンバーがいなくなって、Xに誘われたことがあったんだけども、断ったんですよね‥「僕、SAVER TIGERってバンドがあるから」っていうことで・・
それで1回初めて会ったんですよ、、「とにかく1回見に来てくれ」って
1回見てくれっていうことだったんで、、じゃあ、会うしかないかなぁと思って、恐る恐る横浜にXを観に行ったんですよ
そしたら、ライブ始まったらもう・・・なんでしょう、もう・・ガンダムみてーな、超合金みてーな恰好して、パイプが背中から生えてるやつはいるわ、YOSHIKIはウニ頭だわ、TOSHIはもう、なんかもう、なんだ?よくわかんない…なんか、超合金ロボ、、合体ロボみてぇだったし
それで、「オラ!テメーら!」とか言ってる割には客席の上にはQ太郎のなんか、ぬいぐるみというか風船が浮いてて「オラ!テメーら!Q太郎を粗末に扱うなよ~!」とか訳のわかんないこと言ってるんですよ・・なんだこいつ~とか(笑)
今でもね、彼のX時代の、あのなんだろう、手法というかあの独特の世界世界にただ一つのあの話術というかMCは、、ねぇ、今でこそ色んな人があの話術を真似してますけど、あれはオリジナルですよ、ほんとに
怖がらせて、体育会系なんだけども、なんか笑っちゃうなぁっていうのは彼が始めた事ですよね!で、僕もそれに度肝を抜かれて、なんだかんだ観てたんですけど、、最後は結構YOSHIKIが観客席にダイビングして終わっちゃったんですけどね
で、みんな今よりもあの全然真っ白、、白塗りのメイクだったから、表情掴めないんで、、それで一応、楽屋に会いに行ったんですよ
そしたら、向こうの方から、外人の子供みたいのが「どぉも~~」とか言ってトコトコ歩いてきたんですよね、握手求めて、、それがYOSHIKIだったんですよね、うん…
もう聞くと見るとじゃ大違いで、割と何でしょう・・そんな、ステージではガンダムみたいな恰好してたんですけど、わりとその頃で言うDCブランド?みたいな恰好して、わりとちょっといいトコのおぼっちゃん、みたいな感じの子が、なんかヒョロッとした子が「どぉも~」ってニッコニコしながら出てきたんですよね、、えっ…と思った、、
それがYOSHIKIで、めっちゃめちゃ愛想良くて、、「打ち上げあるんだけど、来る~?」みたいな感じで、もうめっちゃめちゃ愛想良くて、、いや~、これはなんかほんと会ってみなけりゃわかんないもんだよねと思って…
それから僕とYOSHIKIの付き合いは始まるんですよね、お互い別々なバンドだったんですけども、、
それから割とXファミリーとの繋がりもだんだんできてきて、、くるという・・・

よっちゃん、ヒデちゃん

X人生の始まり

で、僕は、わりとその、美容師をやりながら、やる傍ら、SAVER TIGERをずっと続けてて、このメンバーが崩れたら、もう音楽…で飯を食うことは諦めようっていうふうにずっと考えてたんですけども・・・えーっと、案の定、バンド崩れまして(苦笑)
で、僕、バンド、ほんとに辞める・・辞めようと決意しまして
で、Xとかとも遊んでたんで、色んな人にライブハウスの人とかに「明日から美容師に戻ります」つって電話して、もちろんYOSHIKIにも電話したんですよね、、それで「そうか・・」って言ってたんだけども、YOSHIKIがなんかこう、誘ってくれたんですよね、、「じゃあ、Xでもう1回やろうよ!俺ともう1回やろうよ!」って言ってくれたんですよね
わりと不思議なのは、結構色んなバンドに誘われたんですけども、あの、「いや、明日からもう美容師になる。戻る。美容師1本でやっていく、ハサミ背負っていくわ!」みたいな感じだったんですけど、なぜか、、だからよっちゃん、、の一言には、、やってみようかな…っていう気にまたガラッとさせられてしまった優柔不断なわたしがいるんですよね、、
そこからわたしのX人生が始まるわけなんですよ(笑)
うん、そんな感じで、だから、なんだろう・・・あの、YOSHIKIといわゆる仕事じゃないけど、バンドとしてやることに‥決まって、なんか吹っ切れたんじゃないけど、自分は、やっぱりどこかでもっと音楽でやっていきたいっていうのがあったんだけども、なんか今考えると、“YOSHIKIに誘ってもらいたかったんじゃねーの?お前”っていうのは、思い出すとすごい感じますね
で、なんかXに入りまして、あの、ちょこちょこ練習したりとかしてたんですけども、今でも覚えてるんですけども、ライブとかがどんどん決まっていくんですよね
で、当時はですね、あの、お財布握っていたのがTOSHIで、あの、ブッキングとかしてたのは確かYOSHIKIだったと思うんですけども、、
で、あの、今でも覚えてるんですけど、一番最初の僕、Xに入って仕事じゃないですけど、バンドとしての仕事って「元気が出るテレビ」だったんですよね(笑)
なんか「ヤシロ食堂」っていう食堂に行って、演奏してくれっていうのが、確か最初の仕事だったような気がします、、で、そのあと、そのヤシロ食堂でお疲れ様っつって、なんか“お疲れ様かなぁ…”っていうそのまま、彼らの地元である館山の商工会議所かなんか行って、そのままライブをやったのを覚えてますね
そのライブ終わった後に、そのまま館山の海に、なんか、YOSHIKIが飛び込んだりとかしてすげー面白かった覚えはあるんですけど・・

ヤシロ食堂にて

Xインディーズ時代

バイトは…みんなそれぞれはしてるとおもうんですけど、Xの場合「明日までに40万持ってこーい」とかね、そういうのあるんですよね
「ツアーだから」とか「レコード作るから」とか、、当時TAIJIとかも、レコード、アルバムを作る前とかっていうのは、あの、家具とか売ってましたもん、服とか、、洋服とか売って、でもみんなきっちり揃えてくるんですよ、なんだかんだ
何をしてくるんだかはあえて誰も聞かないんですけど、みんな・・僕もだから、借金したりとか物売ったりとかして、、みんな揃えてくるんですよね、うん‥
それが、ファーストのインディーズで出した「VANISHING VISION」の頃かな
僕が一番ね、Xに入って困ったのは、お金のことよりもね、Xって速いんですよ、テンポが、とにかく、あの、当時から
僕のやってたバンドと全然違くて、もうとにかく速いんですよ
で、僕、腱鞘炎とかガンガンなりまくって、、レコーディングとか
で、そのテンポが弾けなくて弾けなくて、、もう「いったいどうすれば、どうすればこうなるんだろう?」と思っていましたね、当時はね
で、「VANISHING VISION」のレコーディングとか、初めてのアルバムの時とかも結構煮詰まりましたもん、俺、これ・・この商売できねーかもしれねーとかって、、いう風に、、僕自身はすごい煮詰まりましたよね、うん‥
その速い速いXの中でも、ひときわ速かった(笑)、えーっと、Xで、えーっと、これは何の中?「Jealousy」の中よりも僕はできれば「SKULL THRASH ZONE」というオムニバス・アルバムがビクターから出てるんですけども、それ僕まだ弾いてないんですけども、その「STAB ME IN THE BACK」が聴きたいな
「STAB ME IN THE BACK」、X


当時、今でこそわりとよくあるパターンだけども、ビデオ配布GIG?面白かったですよね
YOSHIKIん家で「じゃあ、何配布しようか?」とか言って、、「じゃあ、みんな何が欲しいんだよ」とか言って「いや~、冷蔵庫かなぁ」とか「電子レンジとかかなぁ、、でもさぁ…」とか言って「そんなの今まで来てるファンじゃない、ほかのファンが欲しいじゃん」とか言って、「じゃあ、普通の人を巻き込まなきゃ!」とか言って、「じゃあ、何だろう、トラックかなぁ‥トラック配布GIG!」とかね(笑)「いくらかかんのかなぁ」とか、そういうことをね、結構、冗談で話して、布団の上で話しているうちに、ほんとにそういうことができてくる!
「じゃあ、プロモーションビデオってどうやって撮れるのかなぁ」って
「でも、プロモーションビデオってさ、音を作るのは、俺たち作ってんじゃん?」とか言って、「でもさ、ビデオにさ、それ乗っけりゃいいんじゃね?」「簡単じゃん!」「ビデオ、それやろう!」とか言って、、それで始まって、ビデオ配布GIGをやったんですよね
ビデオは結局、そういうところに作ってもらったんですけども
でもね、ほんといなかったですよ、ビデオ配布GIGなんて、、うん、、
最初はそのビデオ配布GIGに「あと、ビデオ“デッキ”配布GIGってのをやろう!」かなんか言って(笑)そしたら「主婦も来るんじゃないかな!」とか、いろんなそういう、ほんと本気かなんだかわかんないようなミーティングを結構やってましたよね(笑)

インディーズ時代

そんなこんなで、わりと、、あの、だんだん有名にもなってきて、お客も入るようになってきて、ただ、まだインディーズだったんで、やっぱり貧乏はずーっと貧乏だたんですけども、、
その、、それぞれ“天使たち”(メンバーにおこづかい等をくれるファンのみなさま)に支えられながら、ロックバンドを営んでたんですけども、有名になるにつれ、やっぱり、“こいつら金になる”という人たちも勿論増えていくわけで、あの・・ね、レコーディング最中も結構、某レコード会社なんていうのは、メンバーそれぞれに「ビーエム(BMW)買ってやる」なんていう話も聞いたりもしましたけどね
あーこれ、漫画みたいだなぁ」なんて思いましたけどね
そういう直接的になんでしょう、そういうレコード会社のオヤジ達と、冷静に?あの、対話してたのは、やっぱりYOSHIKIだったと思いますね
自分もインディーズでレコード会社を・・「エクスタシーレコード」っていうのを経営してるっていうのももちろんありましたし、なんかそういう部分で、まず負けたくないっていうのも、そういう知らないことで負けたくない!っていうのがある男なんで、、わりとそういうことをはじから塗り潰して勉強していくっていうところがすごいなって思いましたよね、、

Xメジャー時代

僕はやっぱり、なんか「ざけんじゃねーよ」っていうのが、ずーっと結構長い間ありましたよね
メジャーとか行った時ですら、わりと「お前なんかになぁ、」とか言って、、わりと仲良くしてくれたディレクターなんかにも、結構なんか、、最初の頃はずっと、「お前なんかに、このロックが解ってたまるかよ」とかっていう、、すごいガキっぽい部分が俺はずっと長い間ありましたね・・
ソニーに入って、すごく、、なんか親代わりだった“津田さん”ていうディレクターがいるんですけども、その人が、、ほんとに彼がいなきゃXをこう、まともに商品にすることはできねーんじゃねぇか、できなかったんじゃないかなと思うぐらいすごいお世話になった父がいるんですけども、彼にすら、結構僕、長い間、長い間っていうかメジャーでファースト作る合宿とかで「あんたなんかに、あんたなんかにロックわかんねーよ!」ぐらいの口を聞いてましたらからね
ほんとにもうしょうがない、、しょうがない子供ですよね(苦笑)

それでやっとメジャーがソニーに決まったんですよ、結局
え~、給料が入るわけですよ、初めてその、音楽で給料が入るっていう、もう・・・衝撃的でしたもんね
それで、僕、やっぱり女の子の家に住んでたんですけども、同棲させてもらってたんですけども、その近所にですね、あの、ちっちゃいアパートなんですけど、あったんですよ、、それがすごく、なんか、今でこそちっちゃいアパートなんですけど、当時はこんな家に住みたいなぁとかって思ってたんですよ、、で、僕、給料もらって、その日に、そのアパートに行きましたもん、で、借りました(笑)すごい嬉しくて、あの、音楽で給料もらうっていう事の嬉しさ、、家賃…7万とか、うん、ですかね
あ!でもその前にね!あったんだ!メジャーになってからなんですけども、すごいことがありました
メジャーになってから「VANISHING VISION」インディーズ盤が異常に売れ始めたんですよ
そしたらね、あの、、なんでしょう、そのエクスタシーレコードの方から、それぞれにギャラが出たんですよ
「なんでインディーズのうちにくれなかったんだよ!」っていうのがすごくあるんだけども、、それが、すっごい僕覚えてんだけど、札束できたんですよ!それね、確かね、札束で20㎝くらいで、それぞれ5人ずつに、うん、5人それぞれ来たんですよ、、で、リハーサルスタジオでそれを貰ったんですよね
で、カッコよかったのを覚えてんですけども、もう一人の相方の、Xの相方のギタリストのPATAが・・PATAがですね、ケツに、その札束をジーパンのケツに入れたままリハーサルしてんですよね
それで、出てくときに落っことしてんですよ(笑)それで「PATA、PATA!落っことしてるよ」っつったら、ウイスキーの小瓶飲みながら「あぁ、そうかー」っつって持ってったの、、僕はねぇ、めちゃくちゃカッコいいなあって思いましたね(笑)
めちゃくちゃカッコいいか、めちゃくちゃお前、ダメ人間だなと思いましたよね、、
いや、僕はもうずっと匂い嗅いでましたよねー
「これをインディーズの時にくれや!」と(笑)

で、その札片(さつびら)の元になったあの「VANISHING VISION」の中から、やっぱり圧倒的に凄い速い曲で、「I'll KILL YOU」、X

そんな感じでメジャーになったわけなんですけども、あの、生活も安定しまして、安定というほどでもないんですけども、行動半径も広がりまして、ツアーと言っても、なんか色んな人たちが入り乱れていくようになりまして、、ホテルなんかにも泊まれるようになりまして、、あの~、いけませんね、慣れないものを持つと、、ほんとに、、あの、ホテルなんか泊まると・・酔っ払って帰ってきて、それはほとんど僕なんですけども(苦笑)「邪魔だ」ということで、「ホテルが狭い」ということで、、窓からテレビを投げたりとかですね、そういうことも多々…ございますし、、
あの、なんか当時はね、Xはホテル協会のブラックリストに載ってて、泊まれないホテルがすごいあった(苦笑)ありましたしね・・
もうね、ツアーに1回行ってくるとですね、メンバー5人中3人にあの“破壊費”っていうのが、項目が別についてるんですよね、、3人っていうのは、私とYOSHIKIとその当時のベーシストだったTAIJIなんですけどね
で、その破壊費が年々、“0”が1個ずつ増えていくんですよね
それがね、別途請求ということで、、そう…
いや、何壊したか、、、う~ん、あんまり人は壊してないんですけどね、あの、物は多いですよね、物とか・・あの、壁とかね、、
ホテルって柔いんですよ、柔らかくできてんですよ、多分ね、あの頃の獣3匹入れといたらね、多分2分くらいでね、全壊しますよね(笑)

メジャーへ

まぁそんな、なんか楽しいこといっぱいのXだったんだけど、まぁ、去年解散しちゃいまして、えーっと、それぞれまぁ、新しいことやってんですけども、、
わたくしはですね、まぁ、先ほど申しましたけど、現在レコーディング、、ロサンゼルスで、3rdアルバムのレコーディング中でして
早く帰りたいなと思っております、、

日本に帰ったら“はしご”したいです(朝まではしご酒)

XJAPANラストライブにて

ピンクスパイダー

「ピンクスパイダー」っていうのは、、“ピンク”っていうのはですね、世界中でどこ行ってもそうなんですけども、妄想の、、妄想のモチーフにされている色なんですよ、“ピンク色の象が見える”とかってよく言うじゃないですか?なんかそれの“妄想を抱えたクモ”っていうような意味なんですけども、、
あの、“スパイダー”・・クモが吐くあの糸っていうのは、ウェブとも言うんですけども、ウェブっていうのはわりと僕たちの情報の、情報収集の一番のツールでもあり、なんか、その象徴でもあるインターネットとかっていうのがあるんですけども、、
その情報をわりと収集するためにウェブを張ったクモっていうのは、自分の張ったウェブの中でしか生きていけなかったり、それ以外は知らないんだけど、ほかのそのウェブを張ったのをすごい情報を持っているような妄想に、すごく凝り固まって、外の世界を知らない男の話なんですよね、「ピンクスパイダー」っていうのは、、
で、この「ピンクスパイダー」ってのは、最後、空を飛ぶんですけども、空というのは、別の世界に行くんですけど、雲に憧れて・・
雲に憧れて、あの雲になりたいと思って、空を飛んで雲になるんですけども、実は雲っていうのも、空っていう大きなものの構成要因の一つでしかなくて、歯車になったに過ぎなかったっていうお話なんですけども、、
このシングルの中では、そこまでは語らずに、“続く”になっております、、
この続きは、基本的には3rdアルバムに入れようかなと思っているのです

hide with spread beaver

エンディング

さぁ、今夜もそろそろお別れです
長い時間お付き合いくださった方々、えーっと、ありがとうございました
今、僕のいるロスの雰囲気が少しは感じてもらえたのでしょうか?
今月はずっとロスにいるので「オールナイトニッポンR」もロスからお送りいたします、、
こんな感じで活舌悪くて、あの、なんかたどたどしくて、何を喋ってんのかわかんなくて、お怒りの方もございましょうが、あの、その旨、苦情の電話などは控えていただけると、わたくしもまだ続けていくことができるかと思います
基本的にロスは天気がいいと言われているんですけども、今年はエルニーニョ現象のせいで、たまに雨が降ったりして、わけのわかんない天候なんですけども、えーっと、息抜きにですね、、息抜きに出かけてるほど暇でもないので、結構レコーディングをガッと集中してやって、早めに帰って、日本であの、はしご酒をしたいなと考えております、、そして、また来週も金曜深夜3時、必ず聞いていただけると嬉しゅうございます、、
では、今夜はこの辺で、、わたくしhideがロスからお送りしました
それではまた来週、さよなら

また春に会いましょう


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