映画「バービー」評


巷で「最悪のクソフェミ映画だ!」「原爆を揶揄する広告を打ったカス映画だ!」と散々な叩かれようをしている映画「バービー」。
叩かれている映画ほど観たくなるのが人情というものである(筆者はそれで史上最強のクソ映画こと「大怪獣のあとしまつ」を映画館で観たこともある)。
そこで今回は西欧に飛ぶ飛行機内で話題の「バービー」を観てみた。


さて、結論から言うと、「バービー」を観て「クソフェミ映画である」と断ずる人間は自分がクソオスであり極度のミソジニストであることを公言しているに等しいと言わねばならないだろう。
もちろん男性優位社会を批判する映画であることは間違いないのだが、それと共に女性社会についても警鐘を鳴らしており、結局のところ男女がいい塩梅に参画できる社会を作りたいよね、というある種の原義フェミニズム的な結論に落ち着いているのだ。


映画「バービー」は、映画内の[現実]と[虚構(バービーランド)]を登場人物が行き来することで進行する。
バービーランドに住む主人公バービー(マーゴット・ロビー)が自分の身体(人形ではあるが…)に起こった異変の原因を突き止めるために[現実]世界へと行き、それがもとで[現実]とバービーランドの双方に騒動が生じる、というのが大まかな流れである。

バービーランドに起こった異変というのは、それまで女性が“主体的“に作り上げてきた世界が一夜にしてケン率いる“オス“によって男性優位社会に作り替えられる、というものである。
それまで女性が務めていた大統領や最高裁判事、ノーベル賞受賞者がケンのもとでケアワーカー化し、彼女たちはケアワークに従事すること(男性に奉仕すること)を「幸せ」と“誤認“する。
大統領バービーも判事バービーも、それまでの“主体性“はどこへやら、ケンに尽くすことを幸せと見なし、“客体的“に働くのである。まさに問題となっている”女性の客体化”に他ならない。


[現実]から帰還した主人公バービーはこの世界の変貌に驚き、仲間と共に洗脳を解くべく活動を開始する。
しかし、この洗脳の解き方があまりにも西欧的で笑ってしまう。
「男社会(化したバービーランド)の欺瞞を各バービーに一つ一つ説明すれば洗脳は解ける!」のだが、それは逆ー洗脳だし、言葉を選ばずに言うとただのオルグである。
言葉による説得でなんとかなる、という発想に捕らわれていることがなんとも西欧的考え方から脱しきれてないなあ、とため息をつくばかりだ。
そもそもケアワーカーとして働くことは「幸せではない」と言わんばかりの表現はどうなんだ、と思うが、多分「バービー」製作者もそう思っているからこその皮肉表現である。製作者も「ケアワーカーとして働くことはイコール不幸だ、みたいな昨今のフェミニズムの風潮おかしいだろ」と思ってるな、というメタ批判として読み解かねばならない。「メタ的に見る」ことが今作に通底する見方である、と気づいたときに理解できる。


マテル社([現実]世界でバービー人形を製作している会社)の重役は全て男性が占めており、そのCEOが「女性の主体性の象徴こそがバービーだ」と唱えているのはとんだお笑い草、これはまさに現実における男性優位社会に対する批判であろう。
例えば、日本共産党のトップが男性から女性に移り変わったことは記憶に新しいが、あれこそ“象徴“として女性を利用し、実際権力を握っているのは男性(志位和夫による院政のスタート)という男性優位社会の強化である。似たようなことがまあ日本共産党に限らず色々な組織で常態化している。
表面上は女性が意思決定権者になったかに見えて、実権を握っているのは男性である、という男性優位社会の潜航は昨今のフェミニズム運動がもたらしたひとつの苦い帰結である。
本当は女性が実権を持つ、という意味でのトップに立つ、が実現されるべきなのである。しかし、急進性が故に形ばかりの女性登用が進み、内実を伴っていない。
それが端的に象徴されているのがマテル社CEOの「(男社会を)回してるさ。上手く隠してね」というセリフである。
ここはストレートな男性優位社会への批判で、非常によい。


ここまで見れば確かに私がクソオスと断じた人間が唱える「『バービー』はクソフェミ映画だ!」という主張に“クソ“かどうかは置いといて一定の理解も示せそうなものだが、私がフェミ映画と一概に言えないと感じるのは以下の描写である。


まず第一に、バービーたちが互いに容姿を褒め合うシーンである。主人公バービー(マーゴット・ロビー)に対しては周囲のバービーたちから「今日も可愛いわね!」といった他者承認が向けられるが、それに同調したデブのバービーは自分のことを「私も(可愛い)!」と自己承認しているだけで、周囲の誰も「可愛い」とは明示的に言わない。
雑な感想でまとめれば、「最高に“女“って感じ」である。
なんとも残酷な女社会の片鱗を僅かワンシーンで描き出したこの描写は本当に秀逸である。
これもまた(メタ的に)「マーゴット・ロビーは可愛い」という了解が映画製作者-鑑賞者の間で成り立っているからこそである。作中において、マーゴット・ロビー演じる主人公バービーも、その他バービーも同じバービーであるにも関わらず、そこに我々が差異を見出しているのは演じる俳優に美醜の差を認めているからに他ならない。つまり、現実におけるルッキズム的差別(普段我々が意識することはないが存在しているもの)を我々の意識に痛烈に刻み込む表現なのである。

「今日も幸せなバービーランド♡(女社会)」で幸せなのは主人公バービー含む“可愛い“バービー、もしくは大統領バービーや判事バービーのように権力を持ったバービーといった一定数に限られ、落ちこぼれたバービー(上述のデブバービーなど)にとっては生きにくいことが想像にかたくない。


これが批判しているのは要はホモソーシャル(所謂ホモソ:ある同一属性を備えた集団のこと。“男性“であることだけを結束する男性社会批判の文脈で使われることが多い用語。上野・清水などのフェミニズム学者が詳しい)である。
つまり、映画内では女性のホモソがクローズアップされているが、実際問題ホモソとして多いのは男性によるものだよな、という男性優位社会に対する批判が隠れている。
ただこのホモソ批判を女性を用いて表象したことによって男女問わないホモソノリの批判に成功しているのである。
上述した通り、ホモソ批判の具体例として挙げられるのは男性によるホモソが多い。しかし、それによって女性のホモソが不可視化され、批判の対象外になってきた(セクハラと言えば男性が加害者で女性が被害者である、といったイメージと、男性が被害者で女性が加害者にもなり得るという実態の乖離を思い出してみると理解しやすいかもしれない)。


第二に[現実]世界に到達した主人公バービーは服を盗んだり人を殴ったりして(人を殴った理由は相手の痴漢なので、これはこれで男性優位的な現実への批判ではあるのだが…)逮捕されるのだが、“可愛いから“という理由で放免され、犯罪を犯したにも関わらず「いきなり逮捕するなんて信じられない!」と被害者ヅラするのである。
“女性性“を利用した罪の減免と、加害ー被害のベクトルの逆転(ほんとは悪いことしてるのに被害者ヅラする)は、現実でも起こり得る“女さんムーブ“に対する痛烈な皮肉である。
これは明らかに女性に対する風刺・批判だ。


また他にも[現実]世界の女の子から「あんた(バービー人形)は女性を性的なものだと誤認させてそれを理想化させた!」「フェミニズムを50年後退させた!」という言葉を向けられる。
このへんは現実のフェミニズム内における意見対立(第一波、第二波、第三波、第四波それぞれの主張)を上手く表現しており、素直に上手いな…と唸った。



続いて、何故突如としてケンが“男性性“に目覚め、バービーランドを男性優位社会に作り替えようとしたか、を紐解く。

これは凄く単純、私がずっと言っていることだが、「男性の悩みの8割は性的不能性」である。
主人公バービーと共に[現実]を見て[現実]世界が男性優位社会であることに気づいたケンは、それをバービーランドにも適用しようとする。
では何故男性優位社会にしたかったのか。
簡単な話、ケンはバービーにフラれたからである。
ケンは[現実]を見る前日、バービーに一夜を共にすることを断られる。
バービーからは「友達である」と告げられる(つまり、“男“として見られない、ということ)。これに対してケンが出した回答は“男性性“の獲得である。自分が“男“になれば、バービーをモノに出来る(獲得できる)と考えたのだ。
なんとも男性に対する洞察の深さが伺える。男性がストーカー化するのも、この“男性性“の獲得を目指した(男性性と暴力性、獲得指向性の結びつき)ものであることが多い。
自身がフラれた原因を“男性性“の欠如に見出したからこそケンは、社会変革にまで昇華させたのである。
ここもまた洞察が深いと思うのは、社会変革(革命)と恋愛感情の強固な結びつきを指摘した点である。
ケンの”オス”化は、なんとも単純な”オス”本性すぎて笑ってしまう。


「2001年 宇宙の旅」のオマージュから始まっていたり(これ自体は使い古された技法ではあるが…)、ザック・スナイダー版「ジャスティスリーグ」を始めとするアメコミ大衆映画を批判していたり、ちゃんと映画を観ている側の人間が作っていることが意図的に喧伝されている。
つまり、これを安直にクソフェミ映画と解するのは思慮が足りない、ということである。
裏の裏まで読め、というのがまずそもそもメタ的に埋め込まれたメッセージであり、それを解読すると、クソフェミ(過度に女性を持ち上げる行き過ぎたアファーマティブ・アクション)ではなく、原義フェミニズム(本来的な意味での男女平等)を唱えている映画であるとわかるはずだ。

この程度の表現で「クソフェミ映画だ!」と目くじらを立てる人間のミソジニー性を暴き出している。
そしてそういう人間が現実に存在している、そんな男性優位社会を風刺しているのである。


図示すると以下

現実ー【[現実]ー[虚構(バービーランド)]】

(【】内はすべて虚構 )

【[現実]ー[虚構]】で[現実]の欺瞞(誇張された男性優位社会)を暴き、それ以上に巧妙かつ深く隠された男性優位社会こそが我々が生きる現実である、と訴えているのが今作のギミックである。



批判の的にされることの多い今作だが(広告で原爆揶揄したのは私も擁護できない、というか叩いている)、映画にこめられたメッセージは力強く、”正しい”ものだと私は思っている。

一方で、今作の広告担当が原爆を揶揄したことからもわかるように、人間誰しも内面化された差別意識から逃れられないんだなあ(女性差別はダメだと言いながらアジア人差別を許容している)、とか、この原爆揶揄は同日に公開された「オッペンハイマー」に乗っかった広告であり、商業主義から逃れられない(商業主義とは作中で批判していた男性優位社会の一帰結に他ならない)んだなあ、ということを突き付けてくる、映画外も含めて完結するタイプの映画である。
とはいえ、良作であることは間違いないので是非観て何かを感じて欲しい。

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