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10years

入籍しました。
計画停電で真っ暗な中これを打ってます。

そう、あの東日本大震災の3日後。わたしは友人にこんな連絡をした。ガラケーで、大好きな友人たちの名前を一つずつ選択しながらメールを送った。まだスマホを持っていなかったし、LINEもなかった時代の話。そう思うと、10年とはものすごく遠くのような気もする。

“大切な人”とつながるグループコミュニケーションサービス『LINE』登場
LINEのサービスリリースを正式発表は2011年6月23日。

10年というのは、それなりに節目な感じもするので、思い出して書いてみることにした。ちょっと長文。

3.14を選んだわけ

わたしは「由来」とか「意味」にこだわるほうだ。
そしてそのわりに「忘れっぽい」というおまけ付き。

秋頃に結婚を決めて、正月にそれぞれの実家で報告をして、その後入籍の日を決めた。それが3.14だ。

3.14にしたのは、覚えやすいだろうということと、
割り切れずにずっと長く続くように、との思いから。
(円周率にかけている)

でもその年の3.14は月曜日だったし、私たちは一緒に住んでいたわけじゃなかった。だから、日曜夜に我が家に泊まることにして、日が変わった直後に出そう(まだ終電あるし)と決めた。

夫はコダワリがない上に、わたしのそういうところに「いいよー」と乗っかってくれる人なので、即決。

したはずだった。

2011.3.11

私たちはそれぞれの職場であの大地震の瞬間を迎えた。お互いにマネジメントロールを持って働いていたこともあり、自分の守るべき場所やメンバーの安全確保が最優先だった。

営業拠点は15階、妊娠中のメンバーと手を繋ぎ、壁のヒビ割れを横目に非常階段で降りた。メンタル不安のあった子は駅向こうの客先から戻る道中、切れ切れの通話を繋ぎ続けた。別拠点の5人とはTwitterで連絡をとった。元気な私でも苦しかった記憶は鮮明だ。

だからあの日、夫となる予定の人とどんな連絡を取り合ったか覚えていない。

どちらも自分はもちろんメンバーも職場も無事で、ということを確認できたのは、夜中になってからだったか、翌日だったか。

「明るい話題は不謹慎」

次の日から、TVには「ポポポポーン」があふれ、世の中は一気に明るい話題を避けがちになった。

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我が家は大きな被害は受けなかったけれど、東京以外の首都圏各県は「計画停電」という順繰りに停電される仕組みのなか、少し怯えながら密やかに暮らしていた。1日数回停電があった。夜なんて文字通り、なんなら、オール電化だったわたしの家は、身動き取れないくらいの真っ暗ぶりだった。

わたしは、そんな自粛の波と不謹慎の闇にのまれて、自分で言い出したはずの3.14入籍を少しためらっていた。

え、いいじゃん。予定通り行こうよ。

もしかしてその時に初めて、
この人と結婚しよう、と腹を括ったかもしれない。

2011.3.13→14

当時、計画停電だけでなく、間引き運転、もなされていた。日が変わってすぐ市役所に提出して、電車で戻れるのか?届けに不備があったら、3.14に受理されないかも、etc.とちょっと及び腰になったけど、ここでも

え、いいじゃん。行ってみようよ!

うん、そう来るよね。
23時台の電車で一駅、市役所へ向かった。

日が変わり、3.14。そんな夜中に婚姻届を出した私たちに、市役所の警備のおじさんはとても喜んでくれて、

写真、撮りますよ!

「もう1枚いきましょう!」と何枚も撮ってくれた。
嬉しかった。

あの時の写真、どこ行ったんだろう。(結婚式で使った気もするから、どこかにあるのかな)

暗闇に光る、友人たちの祝福メール

そこには、不謹慎なんて言葉はひとつもなかったし、「震災婚?」なんてワードも出てこなかった。

メールを見ているうちに輪番が明けて電気がついた。
夜中だけど、明るくて、皆から祝福されて。
不謹慎でもいいじゃん。と思えた。

震災婚(しんさいこん)は、行われている結婚の形態の一つ。これは震災が発生したということをきっかけとして行われた結婚。2011年に発生した東日本大震災の際には、これをきっかけとして結婚に対する希望が生じるとともに、結婚をすることとなった人が存在している。東日本大震災の際には死に対する恐怖から、相手の年収などということを考えずに共に暮らす者を求めるということになったことから、多くの独身は結婚に向けて動き出すようになったということである
(Wikipediaより)

行われている結婚の形態の一つ、ってなんだそりゃ。笑

2011.3.14朝

翌朝は会社の4月人事発表。メンバーはほぼ全員出勤していた。わたしが担当していたチームは結構大型の異動があって、でも全部喜ばしい、新たな活躍に向けての変化だった。

それに乗じて最後に「実はもうひとつ人事が…」とメンバーに報告。皆のけぞって驚いていたのが懐かしい。

10年経って、今日 2021.3.14

10年分このペースで振り返ったら超大作になってしまうので、時を現在に戻したい。これは2021.3.14のSNS投稿だ。

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「心の余裕ができた」

物理的に見れば、気ままな一人暮らしから夫婦へ、そして子どもが二人になって、心の余裕はなくなった、のかもしれないけれど、わたしは、10年前よりも余裕シャクシャクで生きている。

それはなぜかといえば。

①夫の影響
一緒に暮らしはじめて、ジェットコースターな感情の出番がなくなった。なんたって、24/365でスーパー凪モードの人だ。そのわりに、大事な時には、いいじゃんそれ!とか絶妙に乗っかってくる変な人。壮大な農地に放牧されて自由気まま風に過ごしていたら、わたしまでわりとデフォルト凪なやつになっていたのだ。

②出産と子育て
出産後制約や出来ないことが増えたけども、それは自分にとって手放してマイナスではないものだった。

飲みに行けない→もともとほとんど飲めない
ヒール履けない→履いてると痛いしよく転ぶ
子どもたち目が離せない→人の成長眺めるのは趣味
夜の時間がない→夜更かしより睡眠が好き

あげればキリがないくらい、いまの生活のほうが良いポイントだらけだ。(あえて言えば、生牡蠣食べ放題に行けないことと、思い立って一人旅に行けないことは、ちょっとマイナス。でもそのうち取り返すでしょう)

「必要な変化」を手に入れた

子どもと暮らす生活は目に見えて成長していくさまに触れながら、色々なものを想定して備えたり目を配る心を寄せることが増えていくわけで。キャパが空いたわけではない。むしろ、生きてるだけで心配事が増えている。

でも。
その転換が、自分にとって必要な変化だったんだろうと気が付いたのだ。

もっと言うと、わたしは、社会人前半戦で身につけた武装を解いて、本来の私に戻っただけ、なんじゃないだろうか。

自分の至らなさを全力で咎められ矯正を余儀なくされたのが、社会人としてのスタートだった。(その頃のことはいつか書こうと思う)

その後、営業にチャレンジして成果を出し始めても、常に自分はどこか足りてない、もっと頑張ろうと爪先立ちしていたし、マネジメントに役割が変わったり、ほかの部署に異動しても常にその感覚はついて回った。

社会人としてのキャリアの前半で、理不尽や、限界突破や、それをも上回る喜びや嬉しさを経験したことに後悔はないけれど、わたし、という人間の有り様は本来のそれとは少し違うものになっていたのかもしれない。

10年の日々がくれたもの

この10年、わたしの生活を取り巻く登場人物はずいぶん変わった。子どもたち二人がその代表格だ。

その時々で必要な師が降りてくるのだと思っているので、いまのこの生活は、わたしにとって必要なものなのだろう。

武装を解いたからって丸腰なわけでもないし、素手で戦いに出るわけじゃない。どちらかというと、戦うよりも対話を選ぶようになった、に近いかな。(武装も対話も比喩ではあるが)

10年前のわたしは、いま見たら目を覆い耳を塞ぎたくなるようなコミュニケーションも多かった。でもそれがあの時の精一杯だったのも確かで。

あの日発表した人事でわたしのもとを離れ、そこから10年一度も一緒に仕事をしていないメンバーから、先週連絡をもらった。お互いに、あの頃とは変わった自分を晒すのが照れくさいような、嬉しいような。

彼もまた、新たな姿でわたしの前に現れた師、なのだろう。会うのがとても楽しみ。


皆さんからのサポートは、子どもたちと新しい体験をしたり、新たな学びのために使わせていただきます。