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普通ってなんだろう?
「あなたがいちばん普通ね」とその人は言い、
「たしかにー!」場はどっと湧いた。
…え、いまのおもしろかった?
正体不明の違和感のようなもの
普通ってなんだろう?普く広く通ずるもの。
何かにモヤモヤとしたまま、その日の食事を、わたしはまったく覚えていない。
自分(たち)の”普通じゃなさ”を
なんとなく誇らしげにしていることへの違和感?
”普通”に一番も二番もない、という
「ことば」への違和感?
その食事会の参加者は5人、全員女性。
40代ふたり、30代ふたり、20代ひとり。
・バツイチ独身
・既婚で、相手がゲイ
・シングルマザー
・学生出産、結婚
そして私。既婚で、バツナシ、子ナシ。
「普通」と「普通じゃない」を分けるものとは?
その日は『ダイバーシティ』を冠したイベントの打ち上げだった。
ダイバーシティ(diversity)
ビジネスの観点では、人材の【多様性】を確保する、という概念や指針の意味で用いられる。
単に多様性と訳されることもある。
その概念において「普通」と評される属性がある、ということは、多様性の構成要素それぞれの掛け合せでうまれた”ある属性”を日本語的「ユニーク」と捉えている、ということなのかな。
本来の”unique”は
「他に類のない」「唯一無二の」「比類ない」という意味であって、”すべてのひと”がそうであるはずだ。
が、日本語的「ユニーク」は、言い換えるならば、普通じゃない、普通と違って面白い、のような意味。
その基準になるなんらか=普通=わたし?
30代半ばで、
異性と結婚していて
共に働いていて、
子どもがいない、このわたし。
加えていうなら、不妊治療に通っていた。
あなたがいちばん普通、
その言われようをなんとなく嫌だと感じた。と同時に
「普通」って低い評価みたいに感じているの?
…と、自分に混乱した。
この場合は「普通」と「それ以上」
逆に「普通」と「それ以下」と捉える時もあるだろう。
わたしの中にも、なんらかの「普通」がある
ってことじゃないのか?その正体は何?
***
これまでの人生において、
幼い頃から、多様性なんて、当たり前だった。
何らかの社会的な壁や不都合がないことにおいて、自分は恵まれていると思うことはあるし、それは時にわたしを苦しめることがあるけど、だからといって「普通」と定義したことはない。それ以上もそれ以下もない。
皆、それぞれに、それぞれ。と思ってる。
いや、思ってる、と思っていた!?
障がいを持つ従兄弟と、病気と無縁のわたし。
在日韓国人のクラスメイトと、日本人のわたし。
トランスジェンダーの友人と、女性のわたし。
定年間近の先生と、10代のわたし。
etc.
わたし、にもたくさんの属性があり、
それだけ、誰かにとって比べる対象である可能性もあるということにも気づいていた。
世界は、自分と「自分ではない誰か」にとって別物であると知っていたし、その「自分ではない誰か」は人の数だけあって、自分もまた誰かにとってそのひとりであることも知っていた。
そして、
「普通」とか「みんな」という”概念”が正とイコールではない(誤でもない)ことも知っていた。
それでも。わたしの中に、なんらかの「普通」という概念、バイアスはあった。
「あなたが一番普通」、という言葉への違和感の正体はたぶん、これだった。
みんなちがってみんないい、の本質
親の価値観による子への影響もある。親の出生や育った環境、学歴、信仰など様々な要素、かつ、子どももそれぞれ持つ特性と掛け合わせたときに、一つとして同じ個体は発生しない。先天的にもだけど、後天的にもだ。
だからみんな『違っている』はずだ。
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速く走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
金子みすゞ『私と小鳥と鈴と』
みすゞさんのこの詩でも、西加奈子さんの『i』でも、
わたし、あなた、みんな、が描かれる。
『みんなちがって、みんないい』
好き放題やってよい、ではなくて、
生物無生物すべてのものに同等の価値があり、尊い。
『いい』は優劣の優性を指しているのではなく、
存在の肯定を示す表現だと思っている。
そう、だから「普通」も、それより上も下も、ないのではないか。っていうのが、今のところの結論。
皆さんからのサポートは、子どもたちと新しい体験をしたり、新たな学びのために使わせていただきます。