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キャリアの前半で営業を経験することの価値〜用意と卒意

茶道の言葉で、主が客を迎える準備を行ない、空間を演出し、客の登場を待つというように、あらかじめ行うことを「用意」という。これは、主のみが主体となる行為だ。

一方、その場の雰囲気に応じてとっさに判断・行動することを「卒意」というそう。こちらは、主と客とがともに「場」を共有し、「場」を一緒に創り上げていく心の在り様を指しており、主だけが主体ではない。

人に仕事を引き継ぐ、というプロセスの中で、何かが足りない…それはこの「卒意」を伝えきれない感覚だった。

これまで最善を尽くしてきたけれど、必ずしも満点ではなく、新たに良いものに進化させてほしい、と思っている。

TTPS(徹底的にパクって進化させる)

進化すなわち個人の創造性を働かせるには、型ありきだ。

型とは、本質だけを残した基本。
周囲にある様々を切り捨てている。
微細に渡ってマニュアル化したものを、ただ踏襲してゆくだけでは、その先、が生まれない。

伝えられるのは、あくまでも「用意」。
例えわたし自身が同じやり方をしたとしても、その場や相手には同じ巡り合わせはない。場に身を置いたなら、自分で最適解を取りに行かなくてはならない。

心からのおもてなしとは、相手のことを考えながら、「型」を元に茶器や場を「用意」し、その上で「卒意」を働かせてお茶を淹れること。

本番に向けては、ある意味悲観的に予測して万全の準備をととのえる。一方で、本番では、それにとらわれることなく、目の前の相手の反応をみて、自由に進行していく。(本番で使わないとしても徹底的な準備は必要である。)

用意と卒意を鍛える場=「営業」

どんな仕事でも同じだが、特に営業シーンでは顕著だ。
商談の場の構成を考え、資料を作ってテキストを起こし、それを演技化する(いわゆるロープレ)これは決定論的に進めるもの。

その上で、当日対策として、確率論的にクライアントの質問や関心ごとを予測して複数の応対ができるような構えをもっておく。

これを、社会人のキャリアの前半で鍛えることは非常に意味深い。

学生時代は、試験と評価のプロセスが、「記憶(暗記)力・論理力・計算力・推理力」によって左右されることが多いため、それらによって良し悪しが決まってしまうような勘違いが起きやすい。

実際に大学受験に”失敗”したわたしは、大学時代〜キャリアの初期(新卒から数年)において、自分がダメ人間なんじゃないかと思っていて、”成功”した友人たちと会うことを避けていた。

が、社会において評価されるのは、「情報収集力・情報編集力・表現力」=用意と、「コミュニケーション能力」=卒意、である。

そのことに気づかないまま、社会人として数年過ごしてしまうのはもったいない。

万全の用意と場にふさわしい卒意、その二つの鮮やかな発露が求められる営業という仕事を、早いうちに体験しておくことは、その後社会で生きていくうえで必ずプラスになるはずだ。
(他の仕事で出来ないわけではない)

人事を尽くして、天命を待つ。ということなのかもしれない。

皆さんからのサポートは、子どもたちと新しい体験をしたり、新たな学びのために使わせていただきます。