ルッキズムの申し子
無駄に毎日息苦しいですね。
生活をしているとつくづく、自分の見た目から他人が受ける印象を正確に判断することは往々にして不可能のようなことなんだなと知る。
「自分の顔ずっとコンプレックスなんだよね」から始まる話の中身を、洗面所の鏡の前やトイレで時々考える。
でも、たとえば友達に「自分の顔が嫌いなんだよね」と聞かされたら、苦しさか怒りの2択を不必要に選択させられているなと私は思うだろうし、"言える"のは自分の見た目に対するそれなりの信頼があるみたいなことだと感じるし、そもそもそんなんマジで何の解決にもならないと思うから、私はこんなものは無理やり聞かせません。誰にも。だからまあ書きます。今は。
去る6月の修学旅行の朝、しっかり者の優しい友達に集合時間の1時間半前に揺り起こされ、することないから丁寧に目の縁に色を塗って彼女御用達のコテで髪とかついでに巻いてもらったりして外を歩いていたら、同中のあまり話したことない女の子やその日に初めて喋った子とかにも「綺麗」とか「ビジュ良」などというそれが音声としても在れることをそれまで信じていなかったような言葉をかけてもらった。
こんなものを書いて私は何を顕示したいんだろうとは思います。それも思った上でただただ自分がグロくてどうしたらいいのか分からない。とりあえず書く。
前髪をちゃんと切って極力背中を伸ばして、大体の場合は目を逸らしたほうが負けだと学んでから、なんとなく自分がするべき振る舞いが少しだけ見えてきた気分がある。
馬鹿野郎ダサキモあああちにてえかもとはまだ思うこともありますが、どんだけしょうもない苦しいでも取り繕いながら生きるのは詩だろ、とまでは一応腹を決めたつもりです。
この前期末か実テの待ち時間に、出席番号順だと隣の席のめちゃくちゃ華奢な管弦楽部の可愛い子が「その青のシャーペン、見たことないんやけどどこで買ったん?」みたいなことを笑顔で話しかけてくれたとき、あれ私はなんか、別の人間になったのか?と思った。
多量微量にかかわらず冷やかしだとか、対人能力が強いだけの人の思惑には人一倍敏感な方だとうっすら自負しているけど、それはやっぱちょっと違った気がした。
今そういうのが細々と積み重なってる。(思い返すとそのとき隣の彼女に言うべきだったことはいくつかあって、そういう後悔もちゃんと溜まってってる。次に活かす…🥹)
私は誰から見ても美人、誰から見ても不細工、というわけではない普通の顔だけど、アルバムやカメラのデータを見ていると親は両方とも、贔屓目かなりなしで綺麗だ。
白くて細くて快活な笑顔の母と、結果はそんなに出さないけど顔ファンはいる野球選手みたいな父が並んでいる写真がうちにある。
よく分からないちっちゃい滝を背景にぎこちない笑みの父の隣で、その時代は衒いなくキャワいい餅みたいなせいぜい4kgの私が母に抱かれている1枚は今も、母の寝ている部屋に薄く埃をかぶってなお飾られている。
話が少し逸れるが、母親は、もうすぐ半世紀生きたことになる今でも綺麗で驚くほど名前通りの人なんだと最近になってやっと気づいた。
この人も死にたいとか、思ったことあんのかなあと、この前スーパーで隣を歩いていてぽつりと思った。
彼女がこれを読むことはないので書いておくけど、何十年間も、事あるごとに何千回何万回と、そんななんの捻りもない一番初めの祈りのような二文字を、答案用紙やら算盤やらラケットやらLLBeanの注文書やらありとあらゆる書類やらに自分の印として、ありとあらゆる筆記用具で前段の二文字が変わってもひたすらに書き続けてきたんだと思うとそれは随分、誰の手にも余るくらい綺麗なことだと思った。
話を戻すと、大きい目も長い睫毛も愛嬌のある唇も、私は全部弟に譲ってしまった。笑えるほど全部。
でも今は、およそ2年間のアイプチとなぜかちょっとだけ痩せたぶんで左目はもう勝手に二重で、右目も1分でどうにかなるくらいのあれになっている。多分幸運なことに。
顔がコンプレックスすぎて今思えば何かの象徴のようにカメラを避けまくり写真がほとんど残っていない数年間も確かにあったわけだけど、あれ、そんなこと、アイラインを丁寧に描けばもしかしてあっちゃうのか!? と、浅はかにも少しだけ思ってしまった、ということです、書きたいのは。
無論、至極至極普通の領域での話です。見ててちょっと苦しいか、そうでもないかというだけの。誰に断ってんだか分からんけども。
もっと格好のつく見た目だったら何が違っていたんだろうか、と思っていたし、思っている。
2人で写っているうちの友達だけを褒めないでくれ、頼むから、頼むからもういなくなってくれ、と、その続きの、誰も救わず誰にも救われない祈りを知っている。2人で歩いているうちの私だけを褒めないでくれ、頼むから、頼むからああもう、消えたい、消えたい、消してくれ、と、その続きの、人間の愚かさここに極まれりといった具合の果てしなく非生産的で無意味な感情を知った。最近。
友人Aが私でなく知らねえ彼と付き合ったのも、犬の散歩してたら近所のおじいちゃんが野菜くれるのも、彼女と違って一目惚れの餌食になったことがないのも、こんな素敵な田舎でいじらしく燻っているのも、捻くれきった性格を手に入れてしまったのも、あるいは「友達があなたのこと可愛いって言ってた」とかいう無茶なせりふをもらえたのも、友達が私と仲良くしてくれるのも、特定の大人が私のことをやけに信頼してくれるのも、私が選んだわけではないこの入れ物でありさえしなかったら、何が違っていたんだろうと思う。
誰が見ても綺麗な外見に生まれたら、もう少し致命的に彼女に好かれることができたんだろうか。
鏡や写真見て、あっれここまでの顔だったかと思う日はある。し、そんな日があってしまうくらいなら、私は自分の心身の体調から離脱できないだけで、決して見た目の整っている人ではないと分かっている。
自分が他人なんだとしたら、自分の見た目を嫌いだとはとは思わないでくれよ、可哀想に、大丈夫、可愛いから、どうか損なわれないで、と言うだろうと思う。私は、おそらく。苦しいのを知ってるから。
だからでも、だけどでもないが、こんなのは正答でも及第点でもないにしても整形したいみたいなことは思わない。少なくとも今は。別にもうこれ以上自分の顔や身体を恥じたくはない。
できるだけ印象に残る顔でさえあってくれればいい。いつまでそう思っているだろうか。私は。
インターネットをサーフしていると特に、何だか恐ろしく浅はかな価値観を自制しない人が、苦しいほどたくさんいるんだなと感じることが増えましたね?
もちろん世界はずっといろんな形で暴力的で、冷酷に人を殺傷してきましたが、改めて、新しい形状の刃が大勢の人の手によって研がれつつあることを察しています。
できることならば、なるべくこれ以上人を傷つけずにそして叶うならなるべく傷つけられずに生活したいとは思うけど、本気でそれをできると信じていられるほど自分が強くないのは、短い人生でも十分に理解している。
まだ少なくとも奇妙に柔らかくはある綿のような感触を、鎖骨のあたりにはもうすでに感じていたりする。
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