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人格パーツ理論

 人をパーツで好きになる。
 顔とかじゃなくて、性格のパーツ。この人はこういう時に笑ってくれるところがすき、とか。こういうときに気遣いができるところがすき、とか。そういう細かいパーツで人を好きになる。

 仲のいい人ほど、近くにいて、好きになるパーツの量も増えていく。こういうところも好きだし、ここも好きだし、ってだんだんその人の全部のパーツを好きになっていく。そこにはもちろん忖度もあって、他の人がやっててもこの人は好きだからこれでもいいよ。みたいなのがありうる。

 わたしは、好きな人に苦手なパーツが存在することよりも、パーツの変化の方が苦手だ。そのパーツが一つでも変わってしまったら、その人を好きでいられなくなる。テセウスの船みたいな。ちょっと、だいぶ違うけど。パーツが変わっていったら結局違うものだな、と思ってしまう。母校だって、改装されたら懐かしさを感じなくなったりするじゃん。それとおんなじイメージ。好きなところは残ってるけど、確実に減ってる。

 人を人として好きになるんじゃなくて、パーツで好きになる。なるほど。だから私は小学校の頃から変わらない人がずっと好きなんだなと思う。自分のことが好きじゃないのはこれが理由だな、とも思う。

 人格パーツ理論とかなんかかっこいい感じにしちゃったけど、わたしはこれにすごく納得している。そのパーツが変わっても大丈夫な人もいるだろうし、逆にわたしと同じで変わることを恐れる人もいるだろう。変化への恐怖を、少しでも和らげるためにこういう意識があるのかもしれない。

 塾の先生だった人が、浮気をしたらしい。わたしはその人のこと、前からそういうことしそうな人だなと思っていた。もちろん、浮気は悪いことだし、浮気をするような人を好きになることはない。けれど、期待を裏切らないでくれたおかげで、わたしから先生へのイメージは一切変わることはなかった。むしろエンタメ性の高い人間が近くにいたことに喜びを覚えた。

 わたしは人に期待をしないことができないので、浮気しそうだなと思った人にはちゃんと浮気をしてほしい。意味がわからないですよね、最悪ですよね。浮気、ダメ絶対。大丈夫だよ。浮気しなくても嫌いにならないよ。

今日は眠すぎるから短いけど寝ちゃお

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