結婚は自分律し装置
やっほー!はいるだよ。毎回久しぶりの更新になっちゃってる。イヤイヤ期未満の娘の世話、土日に習い始めた息子のサッカー、立て込む仕事で毎日毎日生きるだけで精一杯!今日は酎ハイ2本目飲みながら書いていいか?
さて、こんなマロを頂いたのでせっかくなので、と思ってnoteを開きました。
マロ主の読んだnoteは多分これなんじゃないかな、と思う。わたしも検索して読みました。
わたしはこの方のように、衝撃的な出来事に遭遇したわけでもなく、現実的な権利のために、という理由があったわけでもないので、そうか~こういうこともあるのか~と思いながら読みました。
わたしにとっての結婚
結婚するのとか出産するのとか、逆にしないのとか、あらゆる人生の選択肢に理由が求められすぎているな、と思う。理由がないとそうしちゃいけないみたいな雰囲気を感じる。別にウケるから、とかで決めていいと思うんだよ、なんでも。そんで他人もその選択にとやかく口出す権利はないんだよな。でも逆に、自分の友達が結婚するときは絶対聞いちゃうよね。「なんで結婚しようと思ったの?」って。
わたしは夫と付き合ってるとき、もう絶対この人と結婚したい!と思っていた。結婚という仕組み上、一人の人間と(一応)生涯やってかないといけないっぽいので、それなら多分これ以上の人は自分の人生に現れないから、絶対そのひと枠に夫をぶち込みたい!って感じ。その時20代前半でクソ若かったし、周りは誰も結婚してなかった。だから焦って結婚がしたかったとかいうわけじゃなく、絶対一緒に生きる人間ひとり選ぶなら君に決めた!という表現が相応しいと思う。
何故この人がいいと思ったかといえば、これはめちゃくちゃウケるこというけど、全部よかったからだ。見た目も、性格も、連絡をすぐくれるところも、料理がうまいところも、バイトで真面目に働いているところも、義両親の感じも、義実家がある場所も、交友関係が狭いところも、酔っぱらってアル中で運ばれているわたしを解放して父親と病院でエンカウントしても頑張って看病してくれるところも、全部。
そういうことを言っている恋愛アカウントはさ、あの時代、おれの他にもごまんといた。そんで、ほとんどみんな、結婚して、子供を産んで、本当に様々な道を歩んでいる。結婚は恋愛のゴールでもなんでもないよね、というのを実感する。
結婚は生活だから。これはわたしがいつも口にすることだ。
恋愛は生活じゃないので、嗜好品みたいな使い方をしたっていいと思う。情動に突き動かされて街中でずぶ濡れで足にまとわりついて泣いたっていいし、キレて台所でフォークとか投げてもいい(よくない)そういう劇薬みたいな使い方、してもいい。
でもまじで生活はずっと続くので、街中でずぶ濡れで足にまとわりつきたくなっても、「ねえごめん、雨だし傘買っていったん家に帰って風呂入って寝よう」みたいにしなくちゃいけない。次の日もちゃんと起きて相手のために珈琲淹れて「飲む?」くらい言えなくちゃいけない。
少なくともわたしはそういう風に、理性的に振舞った場面が何度も何度もあるし、それは夫もそうだと思う。
その先に何が待ってるのかはさ~、いま結構考えたんだけどさ~、結局さ~わかんない!!!!!1
でも相手を尊重して理性的に振舞うことは、結局自分が大切にされることに繋がっていると思う。少し我慢して運動したり早起きしたり掃除したりして、みんな少し精神衛生を保ったりするじゃん。そういうことみたいに、生活を続けるために少し我慢して相手を大切にすることは、自分の精神のことも支えてくれるような。気がします。
それは別に結婚に限らないじゃん、といわれればそうだけどね。でも結婚までしなかったらわたしはそこまで理性を発動出来なかったと思うな。途中で投げ出しちゃってると思う。そういう意味で結婚は、自分律し装置、みたいな感じです。
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