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つれづれと書くはなし

 最近、なんも書いてないから文章力が死んだ気がする。天使は死んだのだ。ついでに悪魔も死んだ。人間だけが生きている。などと、ぼんやり考えるだけの日々を送っている。厨二病、乙。

 給料があがったから課金ゲーをはじめてみた。定期的にガチャをしたくなる。パチンコのほうが未だマシか? ゲームは良いぞ。心が洗われる。気づけば時間を食ってくれるし。むしゃむしゃ。そういえばBLゲームを久々にプレイしたんだ。結構おもろかった。死ぬまでに1本ぐらいBLゲームを作ってみたい。でも、何も浮かばない。どうせ僕が考える話の8割か9割は天使の話になる。

天使が好きだ

 おい、急に性癖の話になるじゃん。という感じなんだけど、ベターハーフとか無償の愛が好きなタイプは大体天使モノにハマる。し、倒錯的な感じが良いのかもしれない。囚人とか悪人とかもあるけど、やっぱり天使が好きだな。なんか立派で清廉で美しい人たちがぐちゃぐちゃになってるのが何かなんとも言えないオツさがある。あとは宗教じみた恋が好きなだけともいう。共依存なのか、宗教なのか、微妙なライン。愛に完璧などない。曖昧で答えがないほうが面白い。でも、きっと完璧で答えがある愛のほうが安心できる。だからいつでも不安定でいてほしい。一方で、安心を求めて他者から与えられるものを盲目的に愛するキャラも嫌いじゃない。ほんとうは天使がそんな感じなのかもしれないけど、僕が書くキャラは天使がぐちゃぐちゃ言ってる気がする。謎だ。完璧なものが一回壊れて再構築されるのが好きなのかもしれない。自分色に染まれ、というわけでもないんだけど。
 懐疑的な自分の性な気もする。何も信用できない。何も信頼できない。どうしたら他人を信用できるのか自分でも良くわからない。だから天使に縋って、完璧なものを求めて、でもやっぱり天使も信用できないって気づく。それでも、信用できるものが欲しくて、また忘れた頃に同じことをする。
 好きなものが変わらないのは、きっと忘れてしまうからだね。ずっと全て覚えていたら同じ間違いは犯さないのに。それでも、少しでも良かったことを思いだしては同じ間違いを起こしてしまう。そうやって人生はできあがっていくのだと思う。天使は何も言わないし、何もしてくれない。誰かが救ってくれたとしても、言葉よりも行動のほうが尊いときがある。何の話やねん。

自分と社会のはなし

 気づいたら、部下ができて数年経った。未だにどうして良いかわからない。優しさとは何なのか、と思う。と同時に、なんだろう。コミュニティというのか、組織というのか、そういう概念を理解してないクソガキが存在していることに驚きを隠せない。僕も昔はクソガキだったんだろうな。などと、ぼんやり思う。というか、まぁ僕は家族が会社みたいなもんだったから、そういう組織の立ち位置というか役割というか、自分に求められるものみたいなのは一応若い頃からわかってた風ではあった。それが人生において幸せなことだったのか、というのは置いといてさ。これ何百回も言ってるけど、親父に家庭の仕事を頼まれて「できない」って言うのは許されなかったっていうかさ。
 でさ、この僕の考え方って多分某ブラック企業みたいな感じなんだけど、でも社会ってそういうことなんだよね。それは言い過ぎか。いや、「できない」って言っても良いんだよ。良いんだけど、自分が「できない」って言ったところで仕事は残るじゃん。仕事はなくならないから、その分誰かが犠牲になるってだけの話で、僕はそれがとても嫌だから自分でやってるだけなんだな。品質の話じゃなくてさ。
 仕事の話になると、みんな高みを目指してるもんやな、などと思ったりする。でも実はさ、品質とか+αの前に「必要な仕事を最低限達成する」っていうのが存在して、それが実は一番大切だったりするんだよね。誰もやりたくない仕事をやるっていうのがそれなんだけど。でさ、結局社会ってそういう「誰もやりたくないけど必要な仕事」をやってくれる人を重宝しがちなんだ。そらそうかもしれんけど。「みんながやりたいしそこまで必要ではない仕事」でいくら成果をあげても、そんなに評価されないのはそういうことだと思う。なんかこの考えが頭にないクソガキが存在していることに驚いたりびっくりしたり驚愕したりする。
 品質勝負で、必要な仕事かどうかの判定が存在しないんだよね。自分がやりたい仕事、得意な仕事で品質勝負しかできない。顧客志向というか、「本当にそれは顧客が望んだものなのでしょうか?」という質問を何万回もしたい。それ言うとハラスメントにされてしまうから怖い。頭の中お花畑かよっていう社員がいて、話を聞くと呆れてしまう。ここは学校でも家庭でもクラブでもなんでもねぇよって。心理的安全性とかいう言葉で自分の弱さを誤魔化さないでほしい。社会っていうかさ、会社っていう組織は役割が決まってるわけじゃん。その中で「自分のやりたいことだけやる」ってしたら組織が崩壊するって考えられないもんかね?
 と、思ったりするんだけど、ただ単に何かこの会社という組織構造が理解できてないだけなんじゃないかね、と思ったりする。まぁ今の社会って労働者のが権利強いし、あとなんか「私(クソデカ)は大事にされるべき」みたいな風潮あるじゃん。自分さえ良ければ良いみたいな考え。あれさ、別に良いと思うよ。SNSで言う分には。でもさ、社会にでて組織に属したら、いやがおうでも気づかんもんかね。全員がそれやったら、組織は崩壊するって。「自分さえ良ければ良い」の裏側には他者がいて、社員全員がそうなったらどうなるんだろう、って。自分ができるんだから、他の人も同じようにできるんだ、って何で考えつかないんだろう。世界が狭すぎるのか?
 別に僕も自分を殺して組織を崇拝しろとまでは言わんけど。ただ、自分が好き勝手やるってことは、自分の外側にいる他人も同じように好き勝手やるだろうなって思う。し、だから自分だけは好き勝手やらずにいよう、って思う。好き勝手やってる人が評価される会社なら辞めれば良い。僕たちは社会で働かなければ生きていけないけど、会社という組織は好きなだけ選べる。組織が合わなければ、また別の組織を探せば良い。今のところ、会社ではとても評価されているので辞めるつもりはないけど。でも、時々好き勝手やってるクソガキを見ては「どうしたもんかね」って思ったりはする。
 現実はゲームではないので、気に入らない人を排除することはできないし、この組織にとって悪影響だとわかってはいても、組織から抜かせることはできない。という話をすると「組織にとって悪影響かどうかを何故お前が決められるんだ?」と言われそうなんだけど、そんなの僕がこの会社で評価されてるからに決まってるだろっていう。
 僕がこの会社で評価されている、それすなわち、組織の方針を理解して仕事をしているからであって、そもそも僕の本来のスタンスは「みんな好きに生きたらええんちゃう」っていう完全な放任主義なわけだ。それなのに部下をもってしまったから、この仕事の考え方を言語化する羽目になってしまった。つまるところ、ある意味では僕はこの会社においての仕事の方針を理解しているわけだから、その方針に合わない社員は悪影響だと思ったとしてもそら然るべきでしょっていう理論。傲慢でも何でもないと思う。だって僕はこの仕事の仕方で評価されてるし、マネジメント職もさせられてるんだし。本当は嫌だなんて言っても意味がないからもうどうでも良いけど、でもやっぱり嫌だな。みんな好きにしたらええねん。本当は。会社なんかどうでもええねん、組織論とかアホくせぇし。なんか厨二病みたいだし、と言ってはいけない役割になってしまったというだけなのだ。(だったらSNSでぐらいボロクソ言っても良い気はするけど)
 会社は意識を持たぬ集合体であって、その偶像化が社長だとして、じゃあ会社の方針は誰がどうやって社員に伝える必要があるのだろう。なんてことを、最近ぼんやり思う。あー、化け物ばっかだ。どうやってここまで生きてこれたんだろう、なんて思うけど、生きるのって実はそんなに難しくないのかもしれない。そして「人間としてどうなの?」という問いに対して意味がわからんって顔をする人も多いんだろうな。人間性…

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