2024年5月
タイトルを書いてみて、なんとなく見たことがある文字列だと思ったら『現代短歌』アンソロジーの号数だと気がついた。雑誌の発行日と号数はいつも違っていてわかりにくい。次号の発行までの間に、最新号の号名が過去のものとなってしまう(たとえば、3月15日の発行分に「3月号」と名付けると、4月1日から14日までの期間には最新号のものが既刊に見えてしまう)という理屈は理解しうるけれど。
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みんなが未来のことについて語り出している。先日、学科の友人が主催する「院試対策会」の第一回があった。キーワード事典の項目に従って哲学史上の重要なトピックについて論述の練習をする/ネタを書き溜めるという趣旨の会で、かなり大変だけどとても勉強になりそうでいい感じ。ただ第一回にして早々に、就活やインターンに邁進する同級生らと同じく、我々もまったく同じタイミングで、結局進路や未来について考えなければならないのだという事実に気がついてしまった。院進のことをモラトリアムの延長だとか気軽に考えていたことに恥じいるばかりだ。
予習する、それが未来を知るために唯一できることなのだから
この歌は今年のはじめくらいに作って、U-25の連作に入れるか迷って結局落とした。時間軸上ですこし先にある授業の内容を知るために、何十年も何百年も前の哲学書を読んでいくことが役に立つというのはどこか不思議な巡り合わせだ。
数学が好きな子どもだった私は、学校の授業で新しい概念を教えられるのをいつも知った顔で聞いていた。「新しい」定理を私はすでに知っていて、それはピタゴラスや誰かが発見したもので、けれどおそらくそれ以前から世界(世界?)に備わっていただろうもの……。
🦕
鋏という産まれる前の発明にあなたはときどき髪を切られる
デパートのボールプールにとりどりの令和の初期の子どもがつどう
歴史家の著述のような二首。描かれた状況の突飛さや飛躍からではなく、表立って現れていないことを際立たせる記述によって生み出される詩情。〈朱の実が不吉でもなく熟れているわたしのあばら骨の高さに〉(同「fork」より)の、不吉であることすら許されていない朱(あけ)の実!
そらは、どこをみてもそらがみえたから、いままでだれもみまちがわへんかった、
ひだりめが、いつもみぎめのちかくにあって、よくにてるものをずっとみてた、
おそらく私は普遍的なものが好きで、世界にまだ隠れている秩序を言い当ててくれたものに興奮してしまうのだと思う。
🦅
ブックオフのセールでバルトの『恋愛のディスクール・断章』とカート・ヴォネガットのエッセイ集を買った。ヴォネガットは『タイタンの妖女』の序盤だけ読んだことがあって、おもしろいだろうなーと思って友達の誕生日に新しく買ってあげた。でも間違えて『スローターハウス5』をあげた気もしてきた。
すべての時空にあまねく存在し、神のごとき全能者となったウィンストン・N・ラムファードは、戦いに明け暮れる人類の救済に乗り出す。だが、そのために操られた大富豪コンスタントの運命は悲惨であった。富を失い、記憶を奪われ、太陽系を星から星へと流浪する羽目になったのだ。最後の目的地タイタンで明かされるはずの彼の使命とはいったい何なのか? 心優しきニヒリストが人類の究極の運命に果敢に挑戦した傑作!
すべての時空にあまねく存在する男。
わたしが言いたかったのは、シェイクスピアは物語作りの下手さ加減に関しては、アラバホ族とたいして変わらないということだ。
それでもわれわれが『ハムレット』を傑作と考えるのにはひとつの理由がある。それは、シェイクスピアが真実を語っているということだ。(中略)真実というのは、われわれは人生についてはほとんど何も知らないということであり、何がいい知らせで何が悪い知らせなのかもまったくわかっていないということなのだ。
わたしは、死んだら––死にたくはないが––天国に行ってそこの責任者にこう尋ねてみたい。「何がいい知らせで、何が悪い知らせでした?」
真実。
🐀
国立西洋美術館の「ここは未来のアーティストたちが眠る場所となりえてきたか?」に行った。一歩一歩、進むたびに私の知っている美術/美術館像が破壊される体験で、これまでの人生で一番わくわくする瞬間があったと言っても過言ではない。単純に、現代作家たちが西洋美術館のコレクションを好き勝手に利用して変奏して遊びまくっているのが楽しい。
東京都写真美術館「記憶:リメンブランス」のインスタレーションもそうだったけれど、まるで考古学の発掘作業かのように収蔵庫に眠っていた作品たちを甦らせて、新たな文脈を生み出そうとしている小田原のどかのインスタレーションが本当におもしろい。内容はもちろん、靴を脱いでカーペットの上で鑑賞させられる形式もおもしろくて、色んなやり方で固定観念を破壊しにきているのも嬉しいところ。潔癖症のままでは見ることすらできない展示。ちなみに、写真美術館の方ではありえないくらいデカい紙がもらえるのでおすすめです。
![](https://assets.st-note.com/img/1714755874637-rbaWeALTDL.jpg?width=1200)
収蔵庫にて彫刻作品が地震対策のために横倒しで保管されているのに着想を得たとのこと。だが、あまりにも多くのものをおちょくりすぎている。
![](https://assets.st-note.com/img/1714755870491-kzm6pAnPnD.jpg?width=1200)
「今地震きたら絶対死ぬ」と思いながら廃ビルに並べられた机の上を歩いたりした。
https://ineejyu.com/
🚶
ランシエールの『感性的なもののパルタージュ』が気になっていたところ、ちょうど鈴木ジェロニモさんのお兄さんが哲学研究者で、しかもランシエールの博論がなんらかの賞を取られたというツイートを見かけたのを思い出し、ちょっと読む。
このようにキュセは、現代思想の独創性・新規制の獲得ゲームが、得てして象牙の塔での内輪の争いに終始し、真理探求や社会正義の実現から遠ざかりがちであることを、いくぶん戯画的にではあるが批判的に描き出している。
千葉いわく、フランス現代思想的な議論の特徴とは、(中略)自らの新規制や独自性をいわば「逆張り」的に打ち出すところにある。
序盤から手厳しい。
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近代において芸術は自身の自律性・絶対的特異性を強調し、特定の芸術観によらない領域を確保したが、それと同時に、判定の基準を失ったことで芸術は他の領域・ジャンルと区別されえないものとなった、という近代的な状況を指すランシエールの「芸術の美的体制」の概念と、ニコラ・ブリオーによる「関係性の美学」の概念は短歌評論においてもなんらかの示唆を与えてくれそうだと勝手に思っている。私の聞きかじり程度の知識では、「関係性の美学」とは、中世美術においては神学が、ルネサンスは科学が、あるいは印象派の時代には生理学が参照されつつ芸術作品は制作・受容されてきたが、90年代などのリレーショナル・アートにおいてはその立ち位置に社会学が収まったとするものである。芸術は、人間と神、あるいは人間と世界との関わりではなく、ついに人間と人間の関係を描くようになったのだ……(?)
ここで参照されるリクリット・ティーラワニットというアーティストは、美術館やギャラリーで「パッタイやトルココーヒーなどを振る舞う」というインスタレーション作品を発表しているのだとか。人と人との、新しい交わり方を生み出している、ということなのだろうか。
🚬
上野公園の喫煙所で、ホームレスと思しきおじさんと若者二人が酒を片手に盛り上がっていた。たぶんその場で意気投合したのだろうけど、僕が入る前からいて、出た後もまだ喋っていたのでわからない。
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「私、いつも平岡さんが歌で何をやっているのかあまりわかった気になれなかったんです。(中略)何をやってるのかわからなかったのは、この作者本人も他人が何をやってるかわからないからなんだって。」
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僕も関係性の歌が読めない、気がするけど、それは単純に三者以上の関係を扱えないという記憶力と想像力の弱さに起因している気がする。
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関係性の歌には必ず三人以上の登場人物がいる。〈わたし〉と、〈あなた〉と、それを見ている書き手、の三人が。
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寺山において重要なことは、短歌リズムにおいて、多様な状況に設定された一人称単数の主語が、一人称と三人称の視点を回転させながら、そんな主語が読者の自発性を刺激することである。一定のリズムで区切られ、繰り返される三十一音は、読者の前にある言葉を通じて、それぞれの世界制作を可能にするのだ。
『ほしのこえ』や『恋空』では、独りきりであることこそが、単数の自分のなかに二人の自分を現象させているのだ。私を私と会話させるのだ。
論理的に議論を進めようという態度が過剰に見えると冷めてしまう。紹介されているものが面白いから尚更。
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海を書くのではなく
海で書きたい
一字ごとに原稿用紙が濡れてゆき
やがて一篇の詩が波立って
怒涛となるように
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潮騒をはべらせながら棒切れで〈愛〉の字を書く字は愛で書く
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Je-t-aimeにはニュアンスなどない。それは、説明も、修正も、程度の差も、ためらいも、一切を抹消する。言語の途方もないパラドックスであるが、Je-t-aimeを言うことは、ある意味で、ことばの劇場などありはしないかのように振る舞うことなのだ。しかも、この語は常に真実である。(この語は、その発語行為以外にいかなる指示対象ももっていない。「遂行文」的なのである。)
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現代短歌のアンソロジーの対談で「言葉だけ」だと言われてからずっとちょっと落ち込んでいる。感情を込めて書いたものが伝わらないのは単に私が下手なだけなのか、私の感情をわかってもらえる人がいないのか、そもそも実は魂なんてこの世のどこにも存在していないのか。
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あなたの言葉で橋が笑ってもうちっとも毒なんて怖くない
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世界の大半はどうしようもない悪人や悪事で占められていて、たまに善い人や良い事がある。だからOKってわけでもなくて、それだけ。
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ちょうど一年前に辞めたバイト先の人に挨拶に行った。制服はまだ返していないけど、先輩は笑って迎えてくれた。「雰囲気変わったね」という言葉には、特に価値判断は含まれていなかったような気がした。
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上野公園の水飲み場の蛇口を捻っても水が出なかったので、左に回したままにしておいた。私の知らないところで噴水のように水が吹き出していたらいいなと思う。
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そば殻の枕にしようと旅先では思うつぎの旅行のときも
▼午前中にこれを書いている。これを書いている日のことを総括する、という気はない。
いつもたのしく読ませていただいています。
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