[エッセイ]だからこう 理由があって泣くことも理由がなくて泣くこともある

映画館が好きだ。予告編が終わり、照明がその明るさを落としてゆくあの一瞬、空間から熱が引いてゆくのと同時にわたしのからだから魂が抜けてゆくのを感じる。映画を観るとき、わたしはひとつのスクリーンとなって明滅するひかりを全身で受け止めている。隣に座る誰かの顔が白く光っているのを、見る。

冬が好きだ。まるでわたしのからだを貫通してゆくかのように吹き荒ぶ風に、こころを弄ばれるのが好きだ。寒さに文字通り歯を震わせているあいだ、わたしはもはやわたしのからだをコントロールすることができない。わたしは陶器だ。いつかそれが崖から落ちて壊れてしまう可能性ばかりが思い浮かぶ薄いティーカップに口を添わせる。

映画も冬も、わたしのことを受け身にしてくれる。すさまじい光と音と速度がわたしを置き去りにして、彼らは自分の存在をひたすらに叫んでいる。でもその声がいつか消えてしまうことをわたしは知っている。映画の終わりに泣いているひとは、映画が終わることに気がついてしまったから泣いているのだ、と思う。

暴力は嫌いだ。それはあらゆる価値の種類を無視して、ただ一つの倫理だけを要求してくる。今年の夏休みは地元の友人と伊勢神宮までドライブをした。友人はもうとっくに就職をして、いまは地上五十メートルの高さで建築用のクレーンを組み立てたり分解したりしているのだという。その夜彼の家に泊まって麻雀を打っていると、話題は次の日の予定のことになった。みんなは飲酒をしていて、このまま徹夜で麻雀を打ち、それから日が出たらカラオケに行こう、ということを話していたと思う。わたしは飲酒運転のことを心配して、冗談半分で、「酔っ払いの車には乗りたくないから一時間くらいならみんなで歩いて行こう」と言った。

けれどそれは彼の逆鱗に触れてしまったようで、彼は麻雀卓を蹴り飛ばし、わたしの胸ぐらを強く押し飛ばした。思い返せば、その日のわたしの発言は確かにひどかったと思う。免許を持っていないわたしは彼に運転を任せっきりで、それなのにスピードを出しすぎる彼のことを揶揄ったり、おどけてみせたりした。俺が悪かった。俺が間違っていた。彼に向かってひたすら謝りながらも、わたしはそれが言い訳にしかならないことをわかっていた。「東京に出たからって自分の方が上に立ったって思ってるんじゃないぞ」という彼の発言は本心からのものだったと思う。殴り合いで白黒つける、表に出て殺すまで殴ってやる、と激昂する彼に対し、わたしはなにも交渉の手段を持っていなかった。

言葉は暴力に勝てない。言葉は何度も言い直すことができる。わたしにとってそれは言葉のかけがえのなさであったが、しかし彼にとってそれは言葉の信用ならなさを意味した。暴力だけが本当に何かを終わらせることができる。変えることができる。わたしはそれがずっと悔しい。


映画の銃がわたしを殺してくれたからわたしのあとに起こる恫喝


2023年11月14日、大学の授業課題として執筆。昨冬発行したネットプリント『佐々木』に掲載した連作「指南」の収録歌の初出でした。

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