日記

日記。思い出しながら書く。

0501
講読の授業の教室に行ったら、百人くらい入るはずの教室に十人と少しくらいしかいなかった。連休の間だしな、と思って待っていたが一向に学生も先生も来ず、どうやら休講だった様子。前週の授業に行ってなかったので知らなかった。こういうとき、休講であることを教室のみんなに共有できるような人間にはまだなれる気がしないな、と思う。人に尋ねたりお願いすることには幾分抵抗が少なくなってきたけど、反対に、人にものを教える、という立場に自分から巻き込まれにいくのはいささかハードルが高い。そもそも講読の授業を百人も受講しているのがおかしいんじゃないか。雨が降っていたけれど展示へ行き、夜は歌会。

0502
院試対策の勉強会の初日だった。

0503
三軒茶屋をぶらついて買い物をしたあと、家でお昼ご飯。ジャーマンポテトとスペイン風オムレツ。どちらも国名が入っている。和菓子屋で若鮎とよもぎ餅を買って帰った。これはどっちも相撲取りみたいな名前だ。西洋美術館の展示に行き、昔のバイト先の先輩に挨拶をした。

0504
アルバイト。肉体労働とオフィスワークの二つを梯子したけれど、内容的に後者の方が疲れる。帰り道、交番の前で座り込んで酒とタバコを両手にチェスを指している二人がいた。緑のベストのおじさんたちは熱心に自分の仕事をこなしているのに、渋谷の警察は路上喫煙になんて関心がないらしい。あれもこれも外部委託のせい。

0505
アルバイト。バイト先からいったん家に帰り、十分で着替えてまた別のバイト先に行く、までの時間に花屋に寄ってデルフィニウムを買った。

0506
おいしいケーキを、それも信じられないくらいおいしいケーキを食べた。おいしすぎて会話の途中で少し黙り込んでしまったほどに。映画館や美術館で感動のあまり鳥肌が立つ、とか動けなくなる、を経験したことはあるけれど、味覚からそれほどの衝撃を受けることことがあるとは知らなかった。誰かと行った美術館で印象に残っている作品は多くはないけれど、美味しかった食事の味を覚えていることはよくある気がする。味覚は分け合えないからだろうか。

0507
記憶なし。

0508
再履修の授業の内容がよく整理されて頭に入ってくる。去年受けていたときよりも眠くない気がする。演習の授業ではよくわからない朱子学の話を必死になってノートにまとめた。寒い一日だった。

0509
真面目に大学に行って、真面目に授業を受けた。

0510
寝坊して三限から出席した。半期で六回くらい休めるところの一回目。アラームが聞こえないので対策のしようがない。ロマン主義者の授業を受ける。「沈黙せよ」。ノヴァーリスの言葉として「我々はいくつかのイデーを一挙に言い当てようとしてどんなにかしばしば言語の貧しさを感じることであろうか」というのが紹介されていたけれどまだ見つけられていない。『花粉』のどっかにあるらしいんだけど。

0511
新美術館の展示へ。映像作品を観ている間は映像作品を観ているほかない。異質な時間に巻き込まれる。作品と向き合うためにはまず作品と同じだけの時間を過ごすしかなくて、でも私たちはいつでもそこを離れられるし、離れなければならない。逃げるなよ、とずっと言われている気がする。絵画や彫刻は私のことを釘付けにするけれど、映像は私が私の意志でそこに留まることを要求してくる。単にまだ素晴らしい映像作品に出会えてないだけなのかなあ。

0512
アルバイト。先輩と話していたらこちらに来てくれることになって、午後過ぎまでアルバイトをしていた店舗で夕食をご一緒する。「客として来ました」と言った。久しぶりにリヒター展の図録を開いた。

0513
大学に行かなかった気がする。起きたら16時とかだったような。

0514
すごく早起きをした気がする。

0515
現代歌人協会の講座ののち居酒屋へ。前日に読んだ群像新人賞の受賞作の話。表紙には「当選作」と書いてあって、U25短歌選手権は「優勝」。書きながらコミケが「出展」「頒布」なのに対して文フリは「出店」「販売」らしいという話を思い出した。単語単語にはまだ私が知らない使い分けがあるはずで、知らないうちにそれを混同して使っていたら怖い。場所や文脈に結びついた言葉のこと。

0516
寝坊。こう振り返ってみると飲酒したあと数日は寝坊しがちな印象がある。

0517
部屋が汚くてひどく落ち込んでいた。ライターもなければ爪切りも見つからなかった。前日、友人と喫煙所で会話していたときに「女の爪みたい」と言われたことを思い出す。それは私の煙草の灰が長くとどまっていたことへの言及だったが、別の友人が「俺爪すぐ切っちゃう」と反応し、それに最初の友人が「わかる俺も長いの耐えられない」というように返したのがなぜか気に触れたのか、「めちゃくちゃイライラするな」とか言ってしまったのをいまだに覚えている。無意識に苛立ちの語彙が出てきたことに驚いたし、きっとそれが本心に近いところから出てきたのも怖かった。話題の上滑りはお笑いの定番なのに。

0518
相変わらず爪切りは見当たらなくて、予定を全部無視して動けなくなっていた。【ここに長い文章を書いて、消した。】夕方に家の近くの大戸屋へ。ご飯特盛500g。はじめて行ったその店舗の出入り口から見上げた夜の空がやけに広くて、次は晴れている日の午後に来たいなと思ったのを思い出した。夜に部屋を片付けたら爪切りを見つけたので爪を切った。

0519
文フリへ。挨拶できた人もいたし、挨拶できなかった人もいた。

0520
午後から大学へ。『差異と反復』の読書会へ誘拐され、微分の話をした。私の高校数学の知識のほとんどは『数学ガールの秘密ノート』シリーズのおかげだ。

0521
また大学に行かなかった。夕方からは行った、かもしれない。

0522
歌会。やっぱり自分が司会でないときの方がほどよく緊張していい評ができる。言えることを探して言うとつまらない評になる。

0523
講読の授業の発表。のち、院試対策会で模擬テスト。意外とまだ記憶力は鋭敏で、やればできる、と思う。

0524
頭が回らない。

0525
ライプニッツから目が離せない。渋谷のBunkamuraで『ピクニックatハンギングロック』を観る。こういう映画はあまり得意ではないけれど、衣装や演出が指示する過剰な象徴性が、ある閾値を超えるとその従来の方向とはどこか別の方向へと駆動し始めるような印象があって面白かった。物語はずっと良い方へ向かう予感ばかりに満ちていて、坂道を登っていたはずなのにいつの間にか谷底から出られなくなっている。感じていることと起こっていることがまったく反対で、いや反対というわけでもないのだろう。知らない道。

0526
アルバイト。ひどい日だった。朝はミサに行ってみようと思っていたけれどなんとなく気分が乗らなくてやめた。

0527
大学行けず。

0528
大学行けず。

0529
講読の授業でひとつ前のグループが叱られているのを聞く。ググればわかることくらい調べてこい、と。

0530
ひどい授業。いつも殺気立っていて、質問や議論のためにまずハッタリを仕掛けることがルールになっているかのよう。自信が空回りしている人と無知を装っている人しかいない。なにも納得していないのに、「あーそれもありですね」とか言うのはやめてほしい。黙って。
通っている大学がガザでの即時停止を求める声明を出したらしい。しかし大学当局は声明を出したもののテルアビブ大学との提携を破棄する予定はないとのことで、昼に学生団体が抗議のマーチを行なっていた。
いくつか。
・声明の趣旨にはなんの異論もないが、自分の通っている大学が大学名を主語にして何かを語っているというのがこんなにも不気味なことだとは思わなかった。
・そう思うと、特に関心を持っていない人間が「批判」したくなる気持ちもわからないでもない。
・とはいえ、Twitterを見ていたら「デモはいいけど授業中にしないでほしい」みたいな反応がいくつかあって辟易した。授業中とか、家族との憩いの時間であるとかを問わず彼らは虐殺されているわけで、どうして自分たちの世界の区切り方にばかり固執できるのだろう。
・抗議を繰り返す声と太鼓の音が居心地悪いのはたしかで、でも私が感じているそれは虐殺が悪であることとはあまり関係ないもので……。
・映画館で映画を観たときはスクリーンを出る前にさっさとイヤホンをつける。それと同じで、この日も周りの人間の声を耳に入れたくなくてイヤホンをつけようかと思った。でもその姿が「デモのことを鬱陶しく思っている人」ととられたら不愉快なので耐え忍んでいた。マーチの声は教室までは届いてなくて、誰もその話をしていなかった。
・人を殺すことは許されない。これをアナロジーによって説明することはできない。もちろん、いかなるレトリックを弄することもできない。

0531
今日書いている。哲学の文献講読のレジュメをAIで作ってきたというやつがいて本当に頭に来た。意味のない分量稼ぎを見せられる/聞かされる身にもなってほしいし、もうこれから出来の悪いレジュメのあらゆる部分を信用できなくなってしまった。本当に残念なことです。別にAIが大学から禁止されていようといまいとそれを利用するのは勝手にすればいいし、それによって他人のことが、極端には他人の内面の存在が一層信用できなくなってしまうのはもはや避け難い歴史的な出来事なのだろうけれど、同じ発表班の人間にそういうことをされると舐められているように感じてシンプルに苛立つ。週刊独我論♪
月末はいろんな人の日記が読めてうれしいね。吐き出された言葉は別にあなたの魂の存在の証明にはならないけど、私はそこに魂の存在を感じることができる。人間とアンドロイドの区別がついてしまう時代が一番不幸なのかもしれない。もはや見分けがつかなくなった未来にはもう一度言葉のことを信用できるようになるだろうから。

未来の話ができたのでここまで。短歌の話はまたどこかで。

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