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「金沢」の誇り高き伝説 ~芋掘り藤五郎~


兼六園から続く地に・・・

 北陸新幹線の開通以来、金沢の街には観光客が大勢やって来て、代表的な観光スポットである金沢城と隣の兼六園は特に賑やかだ。しかし兼六園の南に隣接する金沢神社のあたりは少し落ち着いた雰囲気で、前田家が祖と仰ぐ菅原道真を祀った神社境内には、湧く泉を囲った東屋も静かに佇んでいる。
 実はその泉こそが「金沢」なのだ。18世紀末頃に、美称を好む加賀藩によって「金城霊沢」と名付けられたが、もとは「金洗沢」と呼ばれ、そこから金沢の地名が起こったという伝説の地だ。この沢で金を洗ったのは、芋掘り藤五郎という一人の貧しい男であった。
 藤五郎の伝説が文献上に初めて見えるのは江戸時代の前期だそうだが、江戸も後期になると地元の様々な歴史書に登場するようになる。あらすじは次のようなもの。

兼六園横にある金城霊沢の傍の岩窟の中に、
加賀藩の学者であった津田鳳卿が13代藩主の命によって由来を記した碑が立っている。
(2019年撮影)

「金」は芋にたくさん付いている!?

 昔、加賀の国の山科の地(現金沢たくさん市山科町周辺)に住む藤五郎は、伏見山で芋を掘って生計を立てていた。あるとき、大和の国の大富豪・生玉右近万信という人に長谷観音のお告げがあり、娘を加賀の芋掘藤五郎に嫁がせよという。娘の和五はそれに従い藤五郎の妻になった。ある日大和から届いた砂金の包みを持って出かけた藤五郎は、見つけた雁に向かって投げつけて失ってしまう。嘆く和五に藤五郎は「こんなものは芋を掘る所にたくさんあるから明日持って来る」と言う。翌日掘ってきた芋に付いていた砂金を洗った沢を、後に金洗沢と呼ぶようになった。
 この藤五郎の話は、全国各地に数多く分布する「炭焼長者」「芋掘長者」の類型である。同じような説話は、朝鮮半島や中国をはじめ東アジア一帯にも広く見られるという。大陸から日本に金属技術が伝えられたことと深くかかわっているようだ。各地で少しずつ形を変え、その土地らしさを含んだ伝説になっているのだろう。
 藤五郎の妻の父の名にある「玉」や「万」は長者伝説によく見られる語で、和五は高貴な人の子を意味する和子を、藤五に合わせて表記したものと思われる。時代は養老年間(8世紀前半)だとされ、藤五郎は藤原氏の末裔で、中世の守護大名・富樫氏の先祖だともいわれている。
  しかし『伝説 芋掘り藤五郎』を著した本光他雅雄さんはこう指摘する。「藤五郎のモデルとなった人物の特定は到底不可能なことであって、無理やり突っ込んでいくと伝説に秘められている薫り高いロマンを味気なくする」。

藤五郎の無欲な後日談
 
 藤五郎伝説の後日談を紹介しよう。ある年の除夜、山から黄・白・黒の三頭の子牛が藤五郎の家の前に飛んできた。元旦に見ると金・銀・銅の塊になっていたので、弥陀・薬師の二像を作り安置した(藤五郎ゆかりの仏像が金沢市寺町五丁目の伏見寺と同東山一丁目の観音院にある)。後に、実直な藤五郎は推挙されて地頭になった。しかし夫婦に他の欲はなく、和歌を詠んで静かに暮らしたのだった。
 藤五郎は贅沢を好まず、財宝を近郷の民に分け与えたともいう。『北陸の伝承と人間像』の中で原田行造さんは、この伝説は長者譚ではないと述べている。藤五郎の生活は物質優先主義の否定であり、その体質は金沢の文化の中に色濃く流れている、と。
 ところで、三頭の牛が飛び出したという山は後に三子牛(みつこうじ)山と呼ばれるようになった。近年の発掘調査によって、その三子牛のハバ遺跡から多量の和同開珎や鉄片、銅版の如来像などが出土。「三千寺」と書かれた土器も見つかり、特殊な寺院があったと推測されている。
 一方「金洗沢」とは、兼六園のある小立野台地で行われていた砂金採掘に由来するのではないかというのが今の歴史家の説である。史実や説話に理想を織り込んで語られてきた藤五郎の話は、まさに金沢を象徴する「薫り高いロマン」といえるのかもしれない。

藤五郎が鍬を掛けて一服したという松の木があった地に建てられた藤五郎神社(金沢市山科町)。
昭和6年造営、昭和63年改築。(2024年8月8日撮影)


この記事は2001年頃に作成したものを、一部修正して掲載しています。

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