死者に石を投げてはいけないのか?~私が法律を勉強するわけ
1.はじめに
昨日、石原慎太郎が亡くなった。翌日の今日、テレビではワイドショーなどで追悼特集が組まれ、彼の生前の活動が割と好意的に紹介されているようだ。メディアなどでは、亡くなった人についてはポジティブに報じることが多く、また、政治家などもコメントを求められた折には、かつての政敵であっても労い評価するようなマナーがあるようだ(もしくは、争いがあっても同じ土俵で戦った者同士という連帯感がそうさせているのかもしれない)。
ネット上では様々な声が聞こえるが、ある一人のつぶやきに私はしんとした。私たちを傷つけるひとがひとりいなくなった、と彼女は言った。彼女は同性愛のパートナーと暮らすひとりの生活者だった(私はSNSから垣間見える彼女達の暮らしが好きで、たまに写真を見に行ったりしていた)。それは静かな怒りの声だった。
私は彼女の声に共感するよりむしろ、はっとした。このような声は、かつての私にも向けられていたかもしれないと思ったのだ。そして自分の父にも。私もまた傷つける人であった。そして、私の父もまた。
2.私のエピソード
石原慎太郎が都知事をやっている時分に、私は東京に住んで障害者介護の職についていた。私が勤めていた事務所は障害者の権利運動に積極的で、私も介助の機会にデモ隊に参列することがあったが、そういう運動について私はいたって冷淡な立場だった。当時から石原慎太郎の差別的な発言はあったが、私は石原慎太郎自体をなんとなく高く評価していた。障害者の個人個人の生活を支える仕事は好きだったが(そう思っていただけかも)、社会運動には冷淡という矛盾した考え方を私は持っていた。こういう姿勢が差別の本質なのかもしれないと今になって思うのだが。
介護の資格を取得するための講習を受けたときの仲間がいた。そのなかに私より一回り近く年上の男性がいて、私はその男性と意気投合しよく飲みに行き仲良くなった。プライベートの付き合いがある同僚といった感じだったが、職場では私の方が先輩だった。プライベートの関係とは打って変わって、職場の研修などで、その年上の同僚(後輩)をいじると周りが受ける(と私が勘違いしていたのかもしれない)ということを発見してからは、私の後輩いじりがエスカレートして行った。最終的に、その人から「もうあなたとは話したくない、近づかないでくれ」と言われて、私の後輩いじりは終わることになる。二人きりの場面で告発を受けたとき、ハラッサーに典型的なように私もまた加害者の自覚はなく、なぜそんなに怒ってるのか分らずただばつの悪い気分を持て余していた。
その後、私は夜勤と早朝勤務を繰り返す不規則な勤務形態から体調を崩し、鬱になって(そのときは鬱だと気付かなかった)退職することになる。その時、その後輩の男性は、私がいなくなってせいせいしたと思う。彼を傷つける人が職場からいなくなったのだから。しかしながら、彼が職場でそのような気持ちを共有することは難しかったではないかと思う。なぜなら、私は職場の同僚や、特に利用者から惜しまれて退職したからである。私のハラッサーとしての側面を痛感しているのは彼だけだった。去る者に優しい文化は、ときにハラッサーの名誉を守り、被害者を蚊帳の外に追いやるのだと思う。
3.父のエピソード
私の父もまた傷つける人であったが、このことについて思い知らされたのは父の葬儀の時だった。父の告別式は盛況で、多くの人が詰めかけ、親族は父を惜しみ、職場のかつての同僚は昔話に花を咲かせ、父の教え子は父に対する感謝を述べた。父は外では立派な人間だった。しかしながら、家庭での父というのはまた別の顔を持っていた。父がある時期にずっと母親に暴力を振るっていて、そのことについてずっと相談を受けていた母の親友から、「私はあなたのお父さんのことが許せないの」という告白を、告別式の夜、参列者が帰ったがらんとした教会の廊下で受けた。その時の私は、しめやかに父を見送る葬儀の雰囲気に水を差されたようにも感じて、「そんなこと今言わなくてもいいのに。」と思った。
父が亡くなる一か月、緩和ケア病棟の中で、私は父とよく話した。病室の中で父は、「おまえは小さい頃は素直で優しい子だったが私がねじ曲げてしまった」というセリフをことあるごとに私に言った。その時の私は、自分の性格がねじ曲がったものとは思っていなかった(後々カウンセリングで自分のねじれをほどく作業をすることになるのだが)ので、ずいぶん変なことを言うなあと思ったが、言われるごとになんとなく適当な返事をする程度で私がその真意をただすことはなかった。父が亡くなっただいぶ後になって、家族の話とつなぎ合わせてみて謎が解けたのだが、私は小さいころに父から虐待を受けていて、その影響がずいぶんと私の性格に影を落としていたようだった。中学生くらいから父とはよく取っ組み合いの喧嘩をして家の中を混乱に陥れていたが、幼少期に殴られた記憶はなかった。なかった、というより消えていたのかもしれない。その代わりに、父に対する制御不能な憎悪というものが時々湧き上がってくることがあり、何回かは殺そうと思ったことがあった。私の暴力の対象は、反作用としてほとんど父に向かったが、父は自分の虐待により、私も攻撃的・暴力的な人間になってしまったことを嘆いていたのだ。
母親の親友が告別式の後に私に伝えたことも、父が病室で語ったことも、異なる方向から語り掛けていたが、結局同じ課題を私に課していたように思う。つまり、加害者の立場からどう暴力の連鎖を止めるのかということと被害者の立場をどのように守るかという2つの側面から暴力について考えろということだったと思う。あの時、あの場所で父のことを許せないと言った母の親友の発言は(それは母の声の代弁でもあった)、私の心に一石を投じ、今私が法律を勉強する大きな原動力の一つとなっている。
4.おわりに
亡くなった人の業績を称えることとその人の罪にスポットを当てることは、ある空気を醸し出すうえでは、競合してしまうようだ。しかしながら、どちらを深く掘り下げたほうがこの先の未来にためになるのかを考えたとき、暗部に目を向ける必要が出てくることは否定できないだろう。反面教師というロールモデルもあるのだ。亡くなった者のために世界はあるのではない。これからの人のためのものだ。転びながらでも良い、美しくなくても良いので、少しずつ進んでいく社会と共に歩みを進めていこうと思う。
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