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私がiPhoneに保存したのか、      iPhoneが私を保存したのか。

霧のようにはっきりとしない音が耳元で揺れている。
文字通り揺れながら鳴るそれは、見覚えのある形で発光しているはずだ。
水分の分泌がようやく始まった目元を擦りながら、うるさく揺れる光を見ると、知った名前が白色の文字で液晶に浮かび、着信を知らせている。
iPhoneには所有者の社会活動が保存されている。
ボタン一つで睡眠する上、常に電子的活動状態であるこれは、人間のスリープとは違った形で眠っている。
よって、任意の時刻や特定の条件で発光しながら鳴くことができ、睡眠中の所有者はその光と音と振動によって微睡みへと引きずり出される。
徐々に活動を始める脳機能がその発光体に触れ、ルーチン的操作を行うことにより、所有者は自身の世界を思い出し、その世界にとって相応しい自身を演じ始めるのだ。

これは、まだ微睡んでいる私によって書かれた文章である。
別にiPhoneがなくても家族が叩き起こしに来るし、その家族によって昨日以前の記憶は即時に戻るし、家族がいなくてもどこかから呼び起こされ、忘れることのできない記憶によって、孤独に死んでいくのが人間である。

この反論的文章を書く私と、微睡んでiPhoneを外在化した大脳であるとする私と、その両者はそれぞれ私であるし、連続的にそのどちらかに変容し、また混合されたり、増えたりするのも私である。
私はどの私も思い出すことができて、そのおかげでいつ眠りに落ちようが、中断される私の主体を心配することはない。
しかし、私の肉体を駆動し、現在キーボードを打鍵しているのがいったい誰なのか分からないのである。

『覚醒後のお前が徐々に思い出した昨日までのお前の先端がお前だよ。』
と、私の中の私が言っているが、そんなことは重々承知である。
問題なのは、連続する私の先端である私に、まだ形がないことだ。
今思考した言語を、アルファベットの凹凸によって液晶へと移していくこの私は、まだ未確定の私であり、一連の構造をなした文章として認識されるそれらによって私は確定するのかもしれない。

構造をなさない文章は超現実的で、既存芸術に対する反骨芸術として存在できるかもしれないが、先端の私にとっては何の意味もないのだ。
未確定な私を未確定なままに吐き出すことによって、私の時間軸における先端の私は失われ、連続する何かとして振舞えなくなる。
よって、所有する物に私のこれまでを委ねることで、私は好き勝手に私を忘れたり、私を増やしたり、私を消したりできるのかもしれない。

と、ここまでで既に十分好き勝手で乱雑な文章であるからして、私は何を表現しているのかも忘れ、何を表現したいのかも忘れている。
そうだ、微睡みの私に続いたからこうなっているのだ。
なぜそんなことをしたのか、できるのか、それはiPhoneに直近の私がバックアップされており、いつでも私は私として私の世界へ帰れるからだ。
ということにすれば、微睡みに連続する私が確定する。
やがて睡眠を求める生理によって、最初の文章へとループできる。

今日も安心して眠れるのだ。



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