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【どうする家康】源氏なのに「徳川三河守“藤原”家康」って、どういうこと? 〜浜松城奪取の回〜

先週のNHK『どうする家康』(第11回『信玄との密約』)では、姓を「松平」から「徳川」へと変えて(復姓して)、いま一般的に知られる「徳川家康」となりました。永禄9年(1566年)のことで、徳川家康が数え25歳の時のことです。

■「松平」から「徳川」への改姓

ドラマのオープニングでは、岡崎・大樹寺の登誉上人が松平家の家系図を確認し、祖父の松平清康が、新田(義貞)氏から分かれた「世良田(せらた)」の姓を名乗り、さらに遡って義季(よしすえ)という先祖が「得川(えがわ・とくがわ)」を名乗っていたとしました。そのことから登誉上人が、「まぁ……(源氏の末流と)言って良いのではないかと、思わんでもない」という、史実に即した曖昧な表現を使っていましたね。

家康が「徳川(得川)」へと復姓した理由は、「源氏の末裔」だと言いたかったからなのですが、なぜ源氏の末流と言いたかったかと言えば「三河守(みかわのかみ)」という官位がほしかったからです。

官位が得られるのは、源平藤橘げんぺいとうきつ……つまりは源氏か平氏、藤原氏か橘氏の出身者に限られていたんです(単に、それ以外の氏族出身者で官位についた前例が無いためです)。まぁ、出自がしっかりとしている人しか官位につけなかった……という程度の話でしょう。

ということで、源氏を名乗ることで徳川家康は従五位下じゅごいげくらいと、欲しかった「三河守みかわのかみ」の官位をゲットした……というのがドラマの流れでした。

ただし、従五位下の三河守の叙任を祝うシーンでは、「従五位下 徳川三河守藤原家康 朝臣あそん」という名前……姓名官位が掲げられました。

……え? 源氏の末流じゃなかったの? と疑問に感じるポイントですね。もし源氏だとしたら「徳川三河守 源朝臣 家康」となったはずです。

実は、徳川家康が朝廷(天皇)に申請した時に「源氏の徳川氏」としては、受理されなかった……受付できなかったそうです。「源氏の徳川(得川)なんて姓は、聞いたことがない」と……まぁ家柄を疑われました。それで、任官運動を斡旋してくれた公家が、改めて「藤原氏」として申し込めば、叙任されるかもよ? ってことになり、藤原氏の徳川家康として三河守に叙任されたそうです。

ということで、もしかすると……でしかないのですが……「藤原朝臣あそんの徳川家康」の時代が、しばらく続くようです。まぁ徳川家康からすれば、藤原氏だろうが源氏だろうが「三河守」にさえなれればよかったわけで、これで「俺が朝廷から三河守として認められた徳川家康じゃぁ! 皆の衆、俺に平伏せぇえええ!」と言えるようになり、一気に三河統一を進めようとしたわけですし、そのとおりになっていきます。

ちなみに、いつの頃からかは分かりませんが、徳川氏やそのほか松平庶家は「源氏」を名乗るようになります。そのため公文書には、例えば幕末の会津藩藩主であれば「松平肥後守源朝臣容保」という風に記していたわけです。(徳川家康自体が「徳川三河守源朝臣家康」や、Wikipediaが記すように「徳川次郎三郎源朝臣家康」などと署名した文書が、現存しているのかは分かりません…どうなんでしょう…)

■浜松城を手に入れた徳川家康

先週のNHK『どうする家康』(第11回『信玄との密約』)では、徳川への改姓(復姓)のほかにも、家康にとって、エポックなことが起こっていましたが、とてもサラッと話が進められていたので、わたしも気が付きませんでした。

この第11回では、女城主の飯尾いのう田鶴たずが守る引間城の奪取が描かれていたんですよね。史実では永禄11年(1568年)……つまり家康が「徳川」に改姓した2年後の、数え27歳の話になります。

地図左側の白矢印が徳川家康の進軍
同右側の赤矢印が武田信玄の進軍

引間城というと……「聞いたことないけど、小さな城だったんだろうなぁ」……と(愛知県民以外は)思ってしまうわけですが……実はココが、徳川家康が戦国武将として大きく飛躍する17年間を、本拠とした浜松城になります。

『どうする家康』では、お田鶴さんが引間城の城主として戦うわけですが、これは史実に基づいたお話のようです。どういう戦いだったかの詳細は分かりません。ただ、引間城は、けっこう立派な城としてドラマでは描かれていました。実際には、どのくらいの規模だったかを確認してみましょう。

■引間城の規模感

引間(曳馬・引馬)城は、現在市街地になっている戦国期の城としては珍しく、その城の規模がけっこうはっきりと推測しやすいです。なぜかと言えば、引間城を改修した徳川家康もですが、その後の江戸期に入封した諸大名も、引間城の跡を、叩き壊さずに一つの郭として使っていたからです(たぶん諸説あります)。

下の絵図は、2020年に市民から浜松市博物館に寄贈された『遠州浜松城図』です。絵図の右上に濠に囲まれたくるわがあり、そこに記されている文字を読むと「古城」と記されているんです。これが、浜松城となる前の引間城だったんじゃないかと言われているエリアです。

『遠州浜松城図』浜松城博物館蔵

Google Earthで、浜松城と古城を確認してみると規模感が分かりやすいです。

Google earthに書き込んだもの
「引間城」と記しましたが「引馬城」や「曳馬城」など、様々な漢字が当てられたようです

現在の浜松城は、天竜川下流域の平地の中にあります。その平地のなかでも、北西の高台に本丸や天守を構えた、平山城です。本丸以外の二の丸などは、周辺との高低差がなく、防御能力を高めるために周囲を濠で囲っています。

こうして徳川家康が改修した後の浜松城と比べると、古城の引間城はとても狭いですね。学術的にではなく勝手な想像としては、城というよりも、この頃によくあった方形の館だったんだろうと思います。この規模の方形の館で、今川氏からの援軍も期待できないのであれば、籠城するメリットもないので『どうする家康』で描かれたとおり、城主のお田鶴さんの軍勢は、城から飛び出して攻め手の徳川勢に向かって攻め入っただろうと思います。

ただし、引間城の側面には、現在の浜松城の本丸を形成する高台があるんですよね。この小さな高台が、もし徳川家康が拡大改修した際に、土を盛ったものでなければ……つまり戦国期にも存在する丘だったとすれば……当然、引間城で戦う際には、こちらの丘に砦などを築いて、立て籠もっただろうとも思います(いわゆる詰城ですね)。

GoogleEarthより
手前が現在の浜松城の本丸

■浜松城は出世城

徳川家康がお田鶴さんが守る引間城を落としたのは、永禄11年(1568年)、徳川家康が数え27歳の時のことです。そして引間城を浜松城へと改修しはじめて、遠江国侵攻への足がかりとしました。永禄12年(1569年)から元亀元年(1570年)にかけて、完全に本拠地を浜松城に移しました。岡崎城には(『どうする家康』でいう)正妻の瀬名(築山殿)と息子の松平信康に守らせるので、本当ならこの時点から瀬名と家康との別居生活が始まるわけです(その前から、瀬名は岡崎城外の築山に移っていますけどね……)。

写真はWikipediaより
天守は江戸時代初期に焼失して以降、再建されることはありませんでした。天守の資料も残されていないため、現在ある天守は「江戸初期に建てられた天守は、こんな感じだったのでは?」という、想像上の模擬天守です。建築予算によるものなのか、天守石垣よりも一まわりか二まわり小さい天守が建てられています。

とにかく、浜松城へ移った徳川家康は、このあと元亀3年(1572年)数え31歳の時には、三方ヶ原の合戦で武田信玄と闘って、大敗北を喫します。とはいえ、天正3年(1575年)数え34歳では長篠の合戦により武田勝頼を破り、天正9年(1581年)数え38歳の時には遠江国を平定。さらに天正10年(1582年)数え41歳で、駿河国を平定し、三カ国を領する大大名にのし上がります。結局、甲斐国なども治めて、天正14年(1586年)数え45歳の時に、本拠を駿府城に移すまで、この浜松城にいたということです。

徳川家康が最も勢力を拡大した時期に、浜松城を本拠にしていたことにもなります。さらに江戸期には、この浜松城に様々な大名が入封しましたが、入封後には幕府の重職に就くことが続いたため、浜松城は「出世城」と呼ばれたそうです。

浜松市は、現在も人口90万人を擁する都市の一つですが、その礎を築いたのは、間違いなく徳川家康だったと言えます。

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