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竹久夢二美術館へ行って、恋多き人・夢二が、普通の人だったと分かって親近感が増しました

土曜日の昼前に、近所のドトールへ行って『教えてコバチュウ先生 琳派超入門』を読んでいました。最近のわたしはどうも、若い時に読書をしまくっていた頃と異なり、読んでいる本に集中できません。琳派の本を読んでいるのに、頭の中はなぜだか、これまでもそれほど興味を持ったことのなかった、竹久夢二のことが浮かんでいました。琳派と竹久夢二に、なにか共通点を見出したのかもしれません。

ロイヤルミルクティを飲みながら、Googleマップで「竹久夢二」と検索すると、本郷の竹久夢二美術館は、自転車で行けば10分ほどの場所にあることが再確認できました。開催されている企画展も『夢二をとりまく人間関係』なので、面白そうです。そこで残っていた紅茶を一気に飲んで立ち上がりました。思い立った時に、突発的にというくらいの勢いで行かないと、二度と行かない気がしたんですよね。

企画展『夢二をとりまく人間関係』のパンフレット
正面にあるのが弥生美術館。この右隣に竹久夢二美術館が建っています

竹久夢二美術館は、弁護士の鹿野かの琢見たくみさんという方が平成二1990年に、自宅の敷地内に建てた私設美術館です。竹久夢二美術館の創設に先立つ、昭和五十九1984年に始めた弥生美術館と隣り合っていて、1階と2階の通路で行き来ができます。

入館料は大人1,000円。これで竹久夢二美術館と弥生美術館の、2つを見られます。

竹久夢二美術館

竹久夢二と言えば、浮世絵で言うところの「美人画」を多く描いた人というイメージがありました。そして浮世絵と違うのは、竹久夢二が実際に交わった人たちが多く描かれていることです。

今回の企画展『夢二をとりまく人間関係』でも、竹久夢二と結婚したり同棲したりした女性たちとのやり取りが解説パネルに印され、それぞれの女性を題材にして描かれた美人画が展示されていました。

入口の弥生美術館から竹久夢二美術館へとつながる通路

■竹久夢二の女性遍歴年表

竹久夢二と言えば、女性にだらしない男……という印象が強いです。本当のところはどうだったのかを、Wikipediaの内容をもとに、下にまとめてみました。まとめてみると分かりますが、もし竹久夢二が現在の芸能人だか政治家などであれば、たしかに文春あたりの餌食になり、場合によっては世間からのバッシングにさらされたかもしれません。

1907年(明治40年)23歳
岸たまきと結婚。
1909年(明治42年)25歳
たまきと協議離婚
1911年(明治44年)27歳
たまきと別居
1914年(大正3年)30歳
笠井彦乃と出会う
1915年(大正4年)31歳
たまきとは離別
1917年(大正6年)33歳
笠井彦乃と同棲(翌年、笠井彦乃は入院)
1919年(大正8年)35歳
本郷・菊富士ホテルにてモデルのお葉(佐々木カ子ヨ)を紹介される
1920年(大正9年)36歳
笠井彦乃が25歳で病没
1921年(大正10年)37歳
お葉と所帯を持つ(お葉は17歳)
1925年(大正14年)41歳
作家の山田順子と浮気関係が始まり、お葉が去る(なお、山田順子とは4カ月で別れる)
1934年(昭和9年)満49歳11ヶ月
結核により逝去

竹久夢二美術館を創設した鹿野かの琢見たくみさんの娘で、現館長を務める服部聖子さんは、日経新聞の取材に次のように答えています。

「永遠の女性像を探し続けた夢二は、実生活でも恋多き人生を送った。特に最初の妻の岸たまき、病で恋仲を裂かれ、23歳で亡くなった笠井彦乃、『お葉』の愛称で知られる佐々木カネヨの3人との恋愛がなければ、憂いを含んだ独特の美人画は生まれなかった。だからこそ父は『女たらしの遊び人』といったイメージで(竹久夢二が)とらえられることに違和感があったようだ」

日本経済新聞(2010年10月)

また竹久夢二の次男であり、竹久夢二美術館(弥生美術館か?)の館長も務めていた竹久不二彦は、「世間の目がとらえるほど父を女遍歴の激しい浮気者、というふうには思いません」と、自著で記している。「いつでも父は誠実で、一緒に生活する者に優しく正直に対していた」のだそうだ。

まぁわたしも、年表をまとめていて、それほど放蕩していたわけじゃないなと思いました。むしろ、今の世の中にある「一人のひとを一生愛さないといけない」という倫理感が、人間の本性に反している気がするし、無理筋だろうなとも思います。各人が納得して幸せであれば、いいんじゃないかなと。

『夢二をとりまく人間関係』企画展パンフレットより

●夢二と結婚した唯一の女性……岸たまき(他万喜)

他万喜たまきは、夢二が唯一“結婚”という形式で一緒に生活した女性です。ただし、2人の関係は、ひとが理解するのは難しい事例のような気がします。

2人は結婚2年後には離別します。ただ翌年には同棲して2人目の子供を生み、また別れて、さらに同居するといった具合です。また夢二は情が深いためなのか、別居中にも関わらず、たまきの浮気(?)を疑って、出かけようとするたまきの着物をズタズタに切り裂いたといいます。また自身が後述の彦乃と知り合った後にも関わらず、たまきの男性関係を疑い、彼女を海岸に呼びつけて短刀を突きつけ、髪を掴んで振り回したことも……。かなり残念な人だったことは確かなようです。(もちろん美術館で、そんなことは記されていません。Wikipediaに載っています)

企画展で展示されていたのは、下記のような内容です。たまきは、どうして自分の絵に関心がないんだ、どうしてもっと理解しようとしてくれないんだ、という不満を日記に記していたようです。

<夢二が妻のたまきについて記した日記から>
どうしてこうもおれの絵に彼女は同情がないんだろう、イヤ己は同情はほっしないが理解がほしい、せめておれの絵がどう発展すべきものかくらいは妻として知ってくれても好い筈だ

『日記』

とはいえ、これは日記の一文です。おそらく絵画のことで行き詰まっていた時期だったのでしょう。信頼を寄せる、たまきであれば、自身の苦境を救ってくれるはず……という期待もあったのではないでしょうか。

●夢二を、京都…九州へと追いかけた笠井彦乃

笠井彦乃と知り合ったのは、彼女が18-19歳の頃のこと。竹久夢二は30歳です。彼女は女子美術学校の学生で、竹久夢二のファンだったと言います。竹久夢二が運営する「港屋絵草紙店」へ行って、交際がスタート。前妻たまきとの(前述の)海岸事件後に、竹久夢二が移り住む京都……九州へとついていきます。ただし別府温泉で結核を発病。父親によって東京へ連れ戻され、以降は竹久夢二と会うことができず、そのまま亡くなります。まぁ彦乃の父親からすれば、壮年の絵描きである竹久夢二との、ふわふわとした関係が許せなかったのでしょうね。

「夢二郷土美術館所蔵 竹久夢二名品100選」東方出版、2007年(Wikipediaより)1918年頃の彦乃
『夢二をとりまく人間関係』企画展パンフレットより

ほんとにちょっとでも逢いたい。こんなに切ないおもいで寂しがったことは私はおぼえない。
話したいことよりも何よりもただ逢うために逢いたい。

いつの頃の手紙かは分かりませんが、彦乃が父親によって東京へ連れ戻されて、竹久夢二との面会を拒否されていた頃でしょうか。

当初は熱烈に竹久夢二を追いかけた彦乃。一方の竹久夢二は、前妻との離別を、気持ちのうえで整理できていない時期に、2人は出会ったのでしょう。もしかすると、前妻たまきのことで疲弊していた気持ちを癒すために、追いかけてくる彦乃と関係をもったのかもしれません。

想像ですが、竹久夢二は、自身の中でうごめく狂気というか抑えられない激情に、嫌気が指すことがあったはずです。前妻たまきとのことで、自身を、どうしようもない人間だと思っていたことでしょう。そんな時に、自分を全面的に肯定してくれる彦乃と出会い、癒やされていったんだと思います。当初は彦乃が夢二を求めましたが、いつしか彦乃は、夢二にはなくてはならない存在となっていたと想像できます。

どうしようもない自分を、それでも肯定してくれる相手って、なかなか居ないものですからね。

●20歳年下の佐々木カ子ヨかねよ(通称:お葉)

彦乃が父親によって東京に連れ戻されて、東京都文京区の本郷にある順天堂医院に入院します。そして竹久夢二も九州から東京へ戻り、同じく本郷にあった菊富士ホテルで暮らしはじめます。

近くに居るのに彦乃とは会えない……そんな竹久夢二は、気を紛らわそうとしたのか、帝劇の桜井八重子という女優に、恋人のような手紙を何度も出していたようです。そして桜井八重子もまた、竹久夢二の元を訪ねたようです。ただし桜井八重子とは上手くいかず、そのままフェイドアウト。

それと同時なのか、その後のことか分かりませんが、美術モデルとして何度も菊富士ホテルの竹久夢二の部屋に来ていた、佐々木カ子ヨかねよ(通称:お葉)といつしか同棲するようになります……あちゃぁ……。その前後に、竹久夢二が20歳年下の佐々木カ子ヨかねよ(お葉)に出した手紙が、下のような内容です。

私のまえではすっかり子供になって、すなおな心で、いつもはだかのままでいるような心持ちでいるんだよ。
私はお前をどんなに立派な女に出来るか、そして、そのために私は幸福でいられるんだから。

1919年5月末

源氏物語の光源氏ですか……というような内容です。というのも竹久夢二は、『源氏物語情話』という書籍の装幀を担当しています。20歳年下のお葉への手紙で、光源氏を意識していなかった…とは言い切れない気がします。

そして最愛の彦乃が病没したこともあったのでしょう、お葉と渋谷で所帯を構え、数年後には世田谷に移り住みます。この渋谷に引っ越したのは、竹久夢二が37歳で、お葉は17歳です。ちなみに夢二の長男は、この頃14歳……。

■恋多き男と女……山田順子ゆきこ

お葉さんとの恋人関係は4年ほど続きましたが、その間は、竹久夢二の子供たちも一緒に暮らしていたようです。おそらく、お葉さんとしては、自分との子供も欲しいと強く思ったことでしょう(彼女は20歳前後ですから)。でも残念ながら、一児をもうけるものの夭折してしまいます。その翌年に、お葉さんは自殺を図ったと言います。

こうなると竹久夢二も動き始めます。自身が装幀を担当した小説『流るゝままに』を書いた、作家の山田順子ゆきことの恋愛関係が始まります。それに気がついたのか知らなかったのかは分かりませんが、お葉さんは家を出ます(いや、これは本当にお葉さんにとって良い決断だったと思います)。

一方の竹久夢二は山田順子ゆきことうまく行きません。以下は単なる推測ですが。竹久夢二は、お葉さんとの疑似夫婦生活がマンネリ化し始めていた。その上に、お葉さんが子供のことで気を病んでいたため、竹久夢二は家庭生活から離脱したくなったのではないかなと。そんな時に、出会ったのが山田順子ゆきこでした。想像ですが、夢二の現実逃避であり、夫や父ではない自分に戻りたくなったのでしょう。

こちらの順子ゆきこさんは、作家になることを夢見て上京し、徳田秋声に師事。徳田秋声の妻が亡くなったのを期に、同棲を始めます。さらに竹久夢二などと浮名を流す「恋多き女」として知られていた女性です。いわば「恋多き女と男」が出会ったわけです。

美術館の展示では、別れ際……別れを告げられた翌日なのかに、夢二が順子ゆきこに書いた、直筆の手紙が飾られていました。上手な文章で、男女の恋愛が終焉する様子が記されていると感じました。ただ、これを衆人が見ていると知ったら、夢二さんがかわいそうだろう……正直に言えば、そうわたしは感じました。

山田順子ゆきこには、竹久夢二が亡くなってから記した『欲望と愛情の書 附録 オレンヂエート』という著作があります。読んでみると、昭和時代の特徴なのか、わたしには大げさな書き方だと感じる文章だし、その分、気持ちが伝わってこない文章だな……というのが感想です。そして、企画展で展示されていた前述の手紙の内容も、全文が記されていました。う〜ん……なんだかなぁ……。いや、竹久夢二を研究する人たちには、興味深い手紙の内容だとは思うんですけどね。2人の恋愛は、2人だけで完結できないものかな…‥と思ってしまいました。

●竹久夢二も、普通のおじさんだったんだなと感じた企画展

いまさらですが、今回の企画展は、竹久夢二の女性関係を暴露する、というのが本旨ではありません。女性関係については、企画展のハイライトではありますが、それだけではないし、同時に竹久夢二の描いたものも、女性だけを描いたわけでは、もちろんありません。

多くの恋をしたと同時に、感受性の強かっただろう竹久夢二は、恋愛で心を痛めることも人一倍多かっただろうと思います。ただし、そうした気持ちの振幅があったからこそ、竹久夢二しか描けない女性像を描けたんだとも、容易に推察できます。

なんでしょうかね……当然と言えば当然なんですけど、竹久夢二が大好きな人たちは、竹久夢二が純粋だったことを、ことさら強調しようとしている気がします。もちろん純粋で誠実な人だったのは分かるのですが、同時に、ゲスい面もあっただろうし、ひとには知られたくないイタい面もあっただろうと思います。

まぁでも……心がきれいな竹久夢二だから、きれいな絵が描けた……としておいたほうが、なにかと良いんでしょうね。

ただ、なんとなくですが、竹久夢二美術館を創設した鹿野かの琢見たくみさんは、きれいな一面だけでなく、ゲスかったりイタい感じを含めて、竹久夢二に魅力を感じていたんじゃないかとも思います。少なくともわたしは、竹久夢二がシュンッとしたイケオジだったわけじゃなく、普通のおじさん的な面を知ることができて、魅力が増しました。(了)

『夢二をとりまく人間関係』企画展パンフレットより

何だかすこしぼんやりして来た。
然し正月には「桜」は出すんだ。
昨日も徹夜して、「伝説の江戸」
のさしゑを十枚書いた。二三枚
好きなのが出来た。いやないやな 都
会の巻も一昨夜徹夜して
出来た、一夜漬っていふ言
葉があったっけ。

上の恩地孝四郎宛の葉書の内容
『夢二をとりまく人間関係』企画展パンフレットより
2020年に、田河さん遺族から竹久夢二美術館に寄贈されたばかりの作品
美術館には「港や」という喫茶店が併設されています。竹久夢二が開業した「港屋絵草紙店」が名前の由来でしょうね。入ってお茶でもしてから帰ろうかとも思いましたが、お店の中は(…というか美術館もですが)、女性ばかりだったので、やめておきました。
昭和な喫茶店としては、とてもリーズナブルな価格ですね。やっぱり行っておけば良かったかな……
美術館の向かい側は、東京大学の塀が続いています
表通りを出て、根津駅へ続く道
途中で立ち寄ったお寺にあった柿の木
また別の寺の本堂
言問通りを、ゲスい男女の多い街へ……

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