見出し画像

#2:自己愛へのリハビリだったっぽい

 ブログのこと、居酒屋の個室と思っているふしがある。好きなことをとりとめもなく話せる点がそう感じさせているのかも。全世界に公表されているものを個室と形容するのはおかしいのだけれど。ついでに私はお酒を飲まないので、居酒屋にもほぼ行かない。
 ブログを書いていて気が楽だなって思うのは、聞き手の反応をリアルタイムで気にしなくて良いこと。「あ、この話題興味なさそうだな」とか、「変に間が空いちゃった。上手く話せないから次の話題に行こう」とか、そういうことを考える必要がない。話したいだけ話せる。相手の様子を気にしすぎているきらいはあるのだけれど、気にしなかったら気にしなかったで自分だけが気持ち良くなっておしまいみたいな良くない状況になるから、それはそれで対人関係に亀裂が生まれそう。やだやだ。

 そもそも自分のことを話したいと思う相手が、私にどれだけいるかな。数えてみたら、5人もいない可能性が出てきた。
 他人の話を聞くのが好きだし、そっちの方が楽でもある。自分が、相手を楽しませる話をするよりも、他人の話に良い感じに相槌を打って、饒舌にさせる方が労力は少ない。
 あと、自分が体験し得ない話を聞くのは面白い。その人がどう考え、どの価値基準に従い、どれを選択していったのか。切り取られた物語がそこにあって、私はそれを娯楽として見ている。
 ……と言うとなんかちょっとロジカルに人の話を聞いてドラマを摂取しているみたいだけど、ただたんに私は人の生活が好きなだけです。生活感萌えなので。「こういうことをしようと思って物を買った」みたいな話を聞くと、「生きてますね~~~~!!!!!」って爆萌えしてしまう。
 家電とか、カタログやHP見て調べながら比較検討して購入、という流れが大体あるじゃないですか。自分に必要な機能を選択したんだなと想像できるじゃないですか。良い。目についたから買った! とか、可愛いから買った! とか、そういうのも良いじゃないですか。みんな私の知らないところで生活をしている。家帰って洗濯機回したり、化粧も落とさずベッドにインしたりする。良い。爆萌えですよ。

 す~ごい脱線した。

 相手に話をしてもらうことが好きだ。自分が話すよりも、相手のことを聞きたい。
 自分のことを話したいと思う相手も少ないと初めの方に書いた。
 それって相手に対して気を許していないってこと? 自分の腹の中を開示するほど他人を信用していないということでしょ?
 そうだよ。と、今の今まで思っていた。いや実際、半分くらいそれも正しい。基本的に他人のこと、はちゃめちゃに信用していないので。正しいんだけど。

 これ、「自分の話が他人にとって面白いわけがない」という自己否定も入ってないか?

 「他人にとって、私の価値は低い、ないし、無に等しい」。

 だから私が話したところでどうせつまんないでしょ? じゃあ話さなくていっか。劇的なことも何もないし。エンタメとしての価値もないよ~。って、思ってるな!? お前な!? そうだよな!!!???
 昨日に引き続き“気づき”がすごい。う~わ~~~。

 ちなみに言っておくと、べつに親、友人知人や大学の同期からぞんざいな扱いを受けたとか受け続けたとか、そういうことはない。ひたすら私に自信がないだけだ。
 相手が今まで私を大事にしてくれたという過去はあるけど、現在未来までそれが続くと全然信じていない。好意が続くという自分の期待が、裏切られるのが怖いから過剰に予防線を張っている。調子に乗ってふるまいを続けて、他人を落胆させてしまうのも怖い。他人の期待を裏切ってしまいかねない自分が怖い。
 卑屈~~~~。
 結構他人って、一回好きになったらわりと好きでい続けてくれるのにね。人って人のこと、何やかんや愛しているじゃん。
 でもね~、その普遍的な愛情を凌駕するほどの致命的な間違いを、自分が犯してしまったらどうしようって、思っちゃうんですね。嫌われたくなさ、に、常に心情が強張っている。

 自分のこと嫌いなの? と聞かれたら、まあ大好きではある。
 自己評価は高いが、他己評価は低いでしょって思っている。それとこれとは別問題だ。

 そんな中で自分のことを話したい/話せる人間がどれくらいいるか、というものに数人を挙げられるのだから大したものなのかも。
 自分のことを話したら、しょうもなさとか、我が侭っぷりとか、本当は何にもできないところとか、ぼろぼろ出てしまう。そういう私の嫌なところが出ても、私を見捨てないでいてくれるって、その数人には信用を置けているということなのかもしれない。

 いややっぱ多少は彼らにも、自分のことをより良く見せようとしていますね。人から突っ込まれたくない弱みはまだまだ隠している。ばれているような気もするけど。
 だけど“できない”自分は愛されないって、そういう認識はいつまで経っても拭えないんだよな。ずっと良い子でやってきたから。良い子じゃない自分は無価値だって、その“現実”を突き付けられる日に怯えて、良い子のレールを走り続けている。真っ当な振りをし続けている。ばれているような気もするけど。
 都合が良いから愛してもらえているだけだ……という思考からも脱却できないままだけど、そうは言っても前提として、愛されたいという欲望があるんですね。可愛いところあるじゃん。人間してるわ。

 でも自分に対する生活萌えはない!! 残念!!!!
 結局自己評価も低いのでは? という疑念も生じてきましたが、気づかなかったことにし~ちゃお。

 自分に対して嫌いなところはたくさんあって、だけどそこも含めて私は私を肯定している。好悪と肯否って、必ずしも同じベクトルでは動かない。

 他人の感情や思考がどれだけ繊細に左右されるのか、あるいはどれだけ鈍感に維持されるのか、未だ測りかねている。多分死ぬまで、死んでもそれはわからないし、わかったと思っちゃった時が一番危険なんだろうな。

 というか創作やってたせいか「私の創作物は良いよね! わかる! でも私には興味ないだろうし作品のノイズになっちゃうから私自身のことは発信しない方が良いよね!」という発想が根底まで染みついているんだ。つまり「私のつくったもの=面白い、私自身=無価値」という方程式が自分の中でできあがっちゃってるってこと!
 その認識を、ブログで自分自身をエンタメ化していくことでどうにかこうにかできたら良いですね。幼い頃はこんなこと考えず、自分の話を一生懸命していたはず。私自身に価値があると今一度思い込ませてくれ。リハビリだこれは。

 今日こんな話題にするつもりなかったんですけど。

 ※写真は、なんか良い感じに写っている亀です。良いですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?