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澱む

紙巻きの煙草を何本も吸う。
ブラックコーヒーを飲む。

それらの苦味は僕を少しも刺激せず、煙草の煙はただの湿った空気のように、またコーヒーはただの水のように、僕の喉を滑り落ちただけだった。

皺の多い薄い生地のトレンチコートは足にまとわりつき、重いリュックが僕をより疲れさせる。
リュックのポケットに手を突っ込み、鍵を探す。ポケットの中にはガラクタがたくさん溢れ、ぐちゃぐちゃに乱れていた。

コンビニの便所には小さく赤茶色をした油虫ががそそくさとした足取りで壁に張り付いていて、家の自室は干された布団が占拠していた。
かさばる布団を憂鬱に感じながらたたんで部屋の隅へ追いやり、同じように積み上げられた洗濯済みの衣服をタンスにしまい込む。


小さな面倒ごとが、行く先々で積み重なっていた。
いくら掃除しても部屋の床には埃と布団の中を貫き出た羽毛が目立つ。つまみ上げ、くずかごへ捨てると、新たな綿埃と目が合った。

混沌とした部屋を整理し、身に纏った衣服と細々とした持ち物を全て仕舞いきってやっと少しだけ嫌な気持ちが軽くなるが、決して消え去りはしない。
重い足取りで家に帰るまでのあいだ、なにも僕の心を慰めなかった。ただ自分の状況への憂鬱が、澱のように淀み、浮遊と沈殿を繰り返していた。

ポケットの鍵や携帯やポーチを机に放り出すように、僕の足や肩に纏わりついた様々なしがらみを全て投げ出したかった。

頭を思考に浸すと、誰も殺してはいなくとも僕の未来を黒い光が貫いた。
酒で心を空にすることはできない。
そうすれば目覚めた時、全てがより憂鬱な形となって残っているだろうと分かりきっているからだ。そしてきっと、酒にも味はついていない。

最近、心が軽くなったことは一度もない。
ずっと重い気持ちを胸に留め、僕は地表に張り付けられている。細く強靭な蔦に足を捉われた情景は正確な描写に耐えず、それよりも沈殿する澱に親しみを覚える。薄茶色の水の中で黒々と淀む澱は、まさに僕自身だった。
一時の娯しみも、すぐに失われた。
舞い上がる澱は静かに沈んでいくように、なにも根本の慰めとはならなかった。


ぬるぬるとまとわりつく液体の中で、深く重く沈み込む自分自身を観察し、言葉に吐き出す事は少しの慰めにはなる。だからこそ、人に聞かせるのではなく、自分へ愚痴を溢れさせるように、文章を書く。
暗い気持ちを文章にして拙く表現することは、僅かな快感となり、僕は僕に同情することで微かな癒しを感じる。

吐き出した煙のように、なによりも軽く浮かんでいきたかった。
また、手についた汚れと同じように、こびりついたしがらみと憂鬱を、冷たい水で洗い流したかった。
砂袋を地面に放り捨て、ふわりと上へ昇る気球はどんなに幸せだろう。その快さを、僕は強く強く希求している。

なにも心を慰めはしない。空腹に喘ぎ、それを収めるため食事をして、今度は泥を溜め込んだように胃がもたれる。
八方塞がりだった。
僕の先の道には巨大な土くれが積み上がっていて、そこに汚い言葉が書かれた看板が埋め込まれている。僕はそれらひとつひとつに、「糞」とどす黒いスプレーペンキで殴り書きし、嫌な気持ちになる。
助けを求めるように空を見上げ、暗い曇り空に失望する。僕を取り巻く全ての状況は、周りの人間を含め灰の味しかしない。
なにも僕を慰めず、なににも僕は心を開かない。

幸せなように笑顔を作るのも疲れたし、つらいふりをして目を伏せるのも面倒くさい。
便所の個室で壁を見つめるような無表情が、顔の裏に常に浮力を保っている。

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