Red point of view 1

 わたしは何にもないこの世界が好きじゃない。でも嫌いってわけでもなかった。わたしはいつものように高校に行くために、朝のルーチンワークをこなしている。自分ごのみの焼き具合に目玉焼きを仕上げ、食パンと一緒に食べながら、朝の情報番組を見る。そして気だるそうに歯を磨き、鏡を見てキメ顔をして、今日の自分の顔をチェックする。身支度を終えると、家のドアを開けて高校へと向かう。こんなつまらない日常に嫌気がさすほど疲れていて、でも…… 不思議なくらいあまえていた。

 心地よいリズムを刻んでゆれる電車の中で、わたしはイヤホンをして、わけもなく音楽を聞いていた。別に音楽が聞きたいわけでもないのだけれど、大きなゆらぎが欲しくて、自分を守る何かがほしくて、わたしは音楽を聞いていた。
「おはよう」
なれ親しんだ声が聞こえる。イヤホンを片方だけはずして顔を上げると、そこには優花がいた。こんなにわがままで自由なわたしを認めてくれる大切な友達だ。
「おはよう」
わたしはぎこちなく微笑んで、優花に答える。
「朱里なんだか最近疲れてない? 大丈夫? なんだかぼんやりしてること多くない?」
優花はかすかに茶色い髪の毛をゆらして、首をかしげながらわたしの方を心配そうにのぞき込む。
「そうかな。なんかいろんなことがめんどくさくなってさ。でも何かがあったわけでもないし。ただ退屈なだけかな」
わたしは本当に思っていることを、淡々と答える。
「ならいいんだけど。テストも近いんだし、がんばろ!」
「うん。そうだね。なんとかしなきゃなー。 優花一緒に勉強してよ。そしたらがんばれる気がする!」
「全然いいよ。一緒にがんばろうね!」
「うん」
気がつくと高校のある駅についていて、わたしと優花は電車を降りる。優花はいつもわたしのことを気にかけてくれる。気を使うわけでもなく、おせっかいというわけでもなく、純粋にわたしのことを心配してくれる。その純粋さが、わたしには居心地がとても良い。だから一緒にいる。

 今日も何気なく時間が過ぎていく。退屈で長い授業を終えて、休み時間にはイヤホンをしながら、ぼんやりとグラウンドの方を眺める。自分だけこの世界から切り離されて、どこか遠くからこの世界を箱庭のように眺めているような気がする。色鮮やかなはずの高校の景色が、わたしにはすべてセピア色に見える。汚い星のようなものがちらついて、わたしは教室に引き戻される。
「朱里! 何ぼーっとしてんだよ。この英語の参考書貸してくんない?」
気がつくと、理久が雑にわたしの参考書を手にとって、パラパラとページをめくっていた。
「なにこれ! お前何も使ってないじゃん」
「うるさいな。別にいいじゃん」
「じゃあとりあえず借りてくわ! よろしく!」
「あっ。もうしょうがないなー」
理久はいつも大雑把でフランクで、人の心の中にするっと入り込んでくる。こんなわたしの心にさえ、こっそり入り込んでくるんだからたいしたもんだ。でもなんだか憎めなくて、心に入り込まれても嫌な感じはしない。だから理久とは、お互いにわがままをぶつけあっている。それがなんだかバニラとチョコのミックスソフトクリームみたいで、わたしはその関係が嫌いじゃない。
「あっそうだ! 明日また優花とか誘って遊びいこーな!」
理久は思い出したように振り返って言う。
「あーそうだね。気が向いたらね」
わたしのいいかげんに返事をして、紙パックのストレートティーをストローで一口飲んだ。理久は手をあげて「じゃ」というと、男の子の友達とどこかへいってしまった。理久の制汗剤の無駄にさわやかな匂いが残って、夏を感じた。
 
 やっと今日の授業がすべて終わって、同級生たちは塾やら部活やらに行く。
「朱里、今日は帰ってちゃんと勉強するんだよ! ふらふらしてるのもいいけど、少しはするんだよ」
優花が別れ際に、いつもの決まり文句を言う。
「わかってるって。ちょっと息抜きしにいってから、帰って勉強する! ありがとう優花」
「うん。朱里のそういう自由なとこも好きだよ。息抜きいっぱいしてきて。じゃあね」
優花と高校の最寄り駅で別れたあと、わたしは今日も変わらず電車を乗り継ぎ、緑くんに会いに行く。大きなターミナル駅の改札の外で、イヤホンをしながら緑くんを待つ。雑踏の中でなぜか心が研ぎすまされていく。行き交う人々の心が奏でるさまざまな音が聞こえてくる気がする。「あと5分でつく」と携帯に緑くんからメッセージが届く。わたしは、少しずつ鎧をはがしていく。緑くんに会う時に心が裸になっているように。鎧を脱ぎ捨てていくときに、いつも思い出す。あの暗い部屋。だれもいない、抜け天井になったデザイナーズマンション。わたしは無機質な冷蔵庫から、清潔に管理された飲みにくい硬水のペットボトルを取り出して、それを飲んでいる。水が生きているような気がして、何だか気持ち悪いけれど、その気持ち悪さが命を間近で感じさせてくれるようで好きだった。そうやって、しばらく誰も帰ってこないこぎれいな牢屋でわたしは泣いている。
 でも、今はもう違う。またチカチカと汚い星がちらついて、わたしは緑くんを視界の片隅に捉えた。遠くから目を合わせて、できるだけ優しく、できるだけ愛くるしく微笑む。それがわたしにできる唯一の叫びだから。それが唯一のサバイバルスキルだから。緑くんがわたしに気づき、少しずつ近づいてくる。白地にストライプやドットがオシャレにちりばめられたTシャツを着た緑くんは、軽やかにわたしの前に来て、わたしの頭をくしゃっと撫でる。
「待たせた?」
「ううん。そんなことない。ありがとう」
わたしが抱きつくと、緑くんはそっとわたしを抱きしめて、こう言った。
「もう大丈夫。安全だよ」
緑くんは絶対的な安心感をふりかざして、わたしの手をひいていく。
わたしは思った。もう何でもいい。やわらかくて白い天使の羽の中に埋もれていくように、わたしは安全地帯に沈んでいった。緑くんのことはあまりよく知らない。どこかの音大生らしい。でもそんなのどうでもいいんだ。ただわたしは、緑くんといられるこの時間があればいい。炭酸の抜けきったソーダの中にいるみたいに、わたしの心はベタベタと甘ったるく透き通っていた。

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