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 悲鳴を聞いたのは私じゃなかった。まわりの空気だけがその悲鳴を聞いていた。悲しみを喰らう鳥が来て、全部悲しみをついばんで、なかったことにしてくれる。そんな風に私は思っていた。

 焼け焦げた心を見せびらかすようにコーヒーを飲み、私はデスクに座る。いつものようにパソコンを起動させ、デザイン作業の続きに取り掛かる。パソコンが起動するメカニカルな音が、急に私を残酷に仕事へと突き落としていく。
働くことがやなわけではなかった… ただ、きっと私は未だに代償を欲しがっているのだ。可愛い言葉で言えば〝ごほうび〟を私は欲しがっていたんだ。なんて欲張りなんだろう私は。満たされない心と体を軋ませながら、私は終わりの見えないデザイン作業をコツコツと続けた。まるで毎週日曜日のミサのようなそんな義務感とささやかな祈りを抱いて、私は自分の仕事をこなしていく。

 希望がないわけではなかった。ただ私の目は、昔よりも光を捕まえられなくなっていた。この世界に無数に漂っているはずの希望の光を見つけることが難しくなっていた。不安な私はただただ私を白い砂だけで作られた孤島に閉じ込めて、手作りした兵隊に容赦ない現実と戦わせている。いつ崩れるか分からない私の体を支えるように私は私を閉じ込めた。愛の味を知らないと、世界は驚くほど簡単に牙をむく。ジャングルに潜む虎のように素早く気高く牙をむく。正しい間違っているとかではなく、自分に向けられた攻撃性を少しでも感じ取ると、真夏に道路に落ちてしまったアイスのようにあっという間に、私の兵隊たちは溶けていく。ただむき出しの心だけが、ひび割れた叫びを出して、永遠に救いのない迷路を作り出す。私が欲しいのは心を支える温かい何か。心を支える強い光のような思い。今となってはどうすれば、その支えを手に入れることが出来るのか分からない。欠けた心が暴れ回ると、あらゆるものを不確かにする。あらゆるものを曇らせる。あらゆるものをぐちゃぐちゃにして、私の歩いていた道を行き止まりにしてしまう。デザインソフトを弄りながら、私は愛について考えていた。そうあれは、雨の日だった。

 雨は染み入るように私の体をきれいにする。不安や痛みを洗い流そうと必死に私は雨を浴びる。それがただのごまかしだってこと、その時はまだ分からなかった。雷のように早く鋭く駆け抜ける心の悲鳴は私をかき乱し、化け物のように私をのたうちまわらせる。それは生きるための儀式であり、誰かに救いを求める意味のない願いだったのだろう。誰も探しになんか来なかった。わかっていた。その限りなく透き通った残酷さが、ひんやりとしたフォークのようで私には心地良かった。その時、誰か私と同じようにこんな時間に雨を浴びに来ている少年がいることに気がついた。
「あっ…」
思わず声を漏らしてしまい、私は彼をじっと見つめた。私の視線に気づいたのか、彼も私の方を向き、何かを見透かしたような瞳で私を見つめ返してきた。一瞬爽やかな緑の風に吹かれたような錯覚に陥った。そして、すぐに重い悲しみがこみ上げてきて、私は再び雨に紛れて号泣した。雨は私の声が届いたかのように急に弱くなって、私は飢えた獣のように叫び声をあげていた少年を抱きしめた。愛を求めて。そう。人としての何かを失いたくなくて。誰かを救う自分に酔いたくて。自分の価値を確かめたくて。光の方へ群がる虫のように、私は少年を必死に抱きしめた。彼が微笑んでいるのに気付き、私は真っ黒な蝶たちに囲まれて、下手くそなエチュードを奏でる世界に唾を吐きかけた。

「終わった?」
「ねえ、終わった?」
「終わったかって聞いてるんだよ!」
ライオンに吠えられたかと思い、現実に戻ると、瀬崎さんが私のデスクの横に怖い表情で立っていた。
「あ…すいません。まだです…」
私は怯える小動物のようにつぶやく。
「は? 今日中に終わらせるって言ったよね?これだからお前はダメなんだよ!」
「すいません…」
「すいませんじゃない!早く手動かせよ!」
「はい。あと少しなんですぐやります。」
「どうでもいいから早くやれ!1時間後に来る!それまでに終わらせとけよ!」
瀬崎さんはタバコをふかしながら、事務所の外に出て行った。ブルーを連想させる爽やかな香水の匂いが残って、私は不快で窓を開けた。本当はそんなんじゃないくせに爽やかな雰囲気を装う瀬崎さんが私は苦手だ。本音と建前の使い分けくらい普通のことだけれど、あの人は本当に本音と建前の差が激しい。新築のデザイナーズマンションみたいで私は好きじゃない。瀬崎さんは私の上司のアートディレクターで、結婚して二人の子供がいる。普段は人当たりの良い面白い人だけれだ、納品前はいつもあんな感じにヒステリックになる。約束までに終わらせていなかった私がいけないのだけれど…さすがに徹夜が続くと効率も悪くなってくる。なんでこんなことしているんだろうという疑問が永遠に頭の中でループし始める。スカスカの土台が崩れだし、私は愛を求め彷徨う化け物になる。それを必死に止めているだけで、気が狂いそうで、仕事に集中できない。全部どうでもよくなって、全部消してしまいたくなる。時計は0時30分を指している。私は買いだめしておいたエナジードリンクを飲み干し、パソコンに向かい、デザインの修正とまっすぐ向き合った。シンクロするように優しく、複雑に絡め取るように怪しく。

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