誰かが傷付く形のイジりはイジメと化しているのだと気付こう

「イジり」という概念そのものは、助け舟に近い物だったりする。
そもそも「相手の尊重と互いの信頼」が土台として存在しているのである。
イジる側とイジられる側は、対等であることが必要なのだ。

勘違いしてはいけない部分がよく勘違いされるし、
結果として「イジっているだけ」と言い張る、
実質的にイジメと堕した「ただの口撃」が蔓延っている。
イジりの結果が、相手の尊重ではなく、
相手への侮蔑やマウンティングになっているのなら、
それはもう立派な相手への攻撃だ。

そして、だいたいのイジりは、何故か後者になりがちだ。

イジられる側が
「反応したくない」
「そう言われたくない」
「言われたことで傷付く」
という部分を無視するイジりは、イジメになる。
イジられる側を尊重していないからだ。
とてもシンプルな理由なのに、あまりその辺の理解はない。

ちなみに「自分は平気だから」みたいな理論は、
こういう時に適用してはいけない。
相手が同じように平気だとは限らないからだ。
相手はあなたのコピーやクローンではない。

イジる側がイジられる側を見下していたら、イジメになる。
見下した時点で、視点が対等ではなくなるからだ。
イジられる側を正しい認識で捉えなくなるし、
傷付くような発言をして「イジり」と言い張り、
自分のそれは許される、という傲慢が生まれている。
お前はいつから「自分の方が相手より上だ」と錯覚していた?

生存時間の長さや環境での上下関係を振りかざすなら、
それもまた「相手を対等に見ていない」になる。
気が付いてくれ、頼むから。
そんなつもりがなくても実質そうなっているし、
自分の認識が間違っている、ということだから。


イジられる側にも、嫌な時に嫌だと言える権利がある。
傷付いたら傷付いたと申告する自由がある。

不本意な内容を甘んじて受け入れ続けたり、
「構ってもらえるから自分は傷付いてもいい」なんて、
間違った認識を起こしたりすると厄介になってくる。
認知の歪みに繋がっていきかねないのだ。
生贄ありきの平穏は、本当に幸せなことなのか、
ちょっと考えてみて欲しい。

「自分が我慢すれば他の人がそういう目に遭わなくて済む」
という自己犠牲根性も早めに捨てておこう。
あなたという犠牲が出た時点で、この世に莫大な損失を生んでいる。
重篤な思考バグだ。
ひとりで我慢を続け、限界が来て壊れてしまっても、
耐え続けたあなたが壊れて駄目になった後に、
結局、そいつの新しい犠牲者は増えてしまうのだ。

よく考えてみてほしい。
ターゲットがいなくなったら、新しいターゲットが選ばれる。
加害者だけが生き残っている環境とは、そういうことだ。


イジる側もイジられる側も、互いに気持ちよく笑えること。
どちらかが不当な我慢を強いられたりせず、対等であること。
それらが成立しているイジりであれば、
周りも楽しんで見ていられる物になっているはずだ。

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