暴きたがる思考の裏にある、無責任な正義感には気を付けよう。

今の世の中は、ヒトの目につくなら何もかも、
包み隠さず詳らかにする事が良しとされていて、
だからこそ、ヒトは、秘されているモノを暴こうと、
おのが目で確かめてやろうとしたがる……のかもしれないが。
その行動は、必ず幸せに結びつくようなものか?
という点については、失念しがちになっている気がする。


様々な物に、不安も疑念も抱えるだろうし、
それを早く晴らしたい、安心したいのだとしても。
自分の考えだけで、一方的に相手の思惑を決め付けて、
承諾なしにそれ(相手の秘した物を暴く)をやってしまうなら、
そこに相手への尊重はないわけで。
しかも、加害をした意識も持ちにくいから、厄介だ。
「相手の秘したモノを暴き出す」という行動は、
自己の正当化によって心が満たされてしまい、
相手を悪側にしてしまう事もある。

「自分に対して隠し事をしている相手が悪い」
「だから相手より自分が正しい」
「間違っているのは相手の方なので自分は悪くない」

この思い込みから抜けるのは難しい。
自分の方が間違っていた側だったとしても、
それを認められない人なら、尚更縛られるだろう。
「その正しさは、何によって、普遍的に保証されているというのか」についても、
普通の人なら、疑いたくなどないだろう。
そこで掘り下げを始めたら、哲学への入口かもしれないが、今回はそれは関係ない話

暴いた後の事柄に責任を取れない暴きたがりは多い。
そうする事によって、どんな責任が自分に被さってくるかがわからないから。
秘されていた理由を明かされた時、
「悪だと思い込んでいた物が悪でなかった」と気付けた時には、
濡れ衣を着せて殴った相手に、責任を取る事もできなくなったりするのに。
どんな形であれ、相手を傷付けたら、それは加害だ。
ただの暴力だ。


断罪は気持ちよかろうね。
その時だけはスカッとするよね。
それを続けていけば、いずれ自分の番が来るだけ。
暴かれる番は、ちゃんと回ってきてしまうよ。


……この世界、そういうとこだけは平等なんだよな。
整える所間違ってないか、とたまに思う。
(正しく回っている部分もあるから、全否定はできない)


昔話に限らず、物語には、
「真相が暴かれた事による離別」という、
途中の展開や結末をむかえる物が多くある。
かなり沢山ある。 
神話にすら、その手の話がある。
しかも結構多い。

「自分には無関係な他人事」として、エンタメとして、
消費していくだけであれば、学ぶ物もないのだろうか。
他山の石とする、という発想に思い至らないのなら、そうかもしれない。



「他を虐げて自己を利する」を隠蔽していた場合については、
暴かれるのもやむなし、とは思う。
その下には、そこに至るまでに踏み躙られた、
「可視化されてこなかった犠牲」があるわけだから。

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