答え合わせはいつだって後出し

理不尽な言葉のように見えるかもしれないが、
それなりに筋は通っていたりする。

問題があると認識し、それに対する「自分で考えた答え」を出さない限り、
「答え合わせをする」ことができる段階にならない。
なぜかと言えば、照らし合わせるためのモノ(その人なりの答え)が無いから。
シンプルにそういうこと。
「何を確認するのか」がわからないなら、
どれが、何が、答えなのかもわからないわけで。

最初から、付属している回答を見て、それを書き写すだけ……
というやり方がまかり通るのは、学校の宿題、課題くらいじゃなかろうか。
我々の「人間として生きる」という道に、
はじめから答えが全部書かれた便利な冊子は付いてこない。
自分の人生、将来における重大なネタバレを、
堂々とかましてしまうような、空気の読めない奴もいない。
というか、少なくとも、一般的な人間には、
他人の人生を先読みしてガイドできるようなスキルなんてない。
自分のものにすら、そんなことはできない。
だから、自分の頭を使って、その答えを作るのだ。


「問題」から目を逸らし、逃げて、忘れて、見ようとしないで、
向き合うことを避け続けているかぎり、
本当は、それにどうすることが必要だったのか、
その答えを知ることもないままだ。

なお「行動しないなら結果も出ない」というのは、
回答の書かれた部分を見ようとすらしていないから、
採点のしようもない、ということになる。
「宿題をやらなければ評価点が下がる」のと同じくらい、
自業自得の結果は出る。
「結果が出ない」というよりは、
「それでいい結果にはならない」なのだろう。




……もし、はじめから、正解となるものが全てわかっていて、
ひたすらそれ(正解だとされるもの)をなぞるだけ、
という生き方をするのが一番よいのだとしたら、
そんな生き方をして、楽しいのだろうか。
面白いのだろうか。
それは、自分という個を捨ててまで、
いったい何をトレースさせられているんだろう。
※これは、ただの、個人的な思考。

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