いやしのさきへ。

倒れた人は、すぐに立ち上がれるわけではない。
それは、現実の肉体でも、心でも、同じである。

立ち上がることができたその先に、
自分の足で歩くためのリハビリがある。

歩けるようになったらなったで、
その先にはまだ「やれるようになるため」の課題が出てくる。

怪我をきちんと治さないと痛いままだし、
悪化した傷の影響で、動けない時間をさらに増やすかもしれない。

……のに。

やっぱり、ヒトは、そこを失念しやすい。
失念した結果、治りかけの状態で無理を強いて、
より悲惨な事態を引き起こすまである。
やらかすのは、自己、他者、問わず。


・自然回復力を過信しているかも

「そもそも無理をするな、させるな」という話ではある。
人間の回復力は、これまで考えられていた基準より、
低いと判断せざるを得ない部分が多くあるという。
 
「時間が解決してくれる」という、広く信じられている言説も、
実際、時間が経つ「だけ」では、そこまでなんとかしてくれない。
虚無ばかり生んで、何も取り返せないこともあるだろう。

裏に「本人の自助努力」「協力者の存在」があったからこそ、
この言説は成り立っていたのでは?
と、箱は思う。
失念されポイント。

・周りからの「正しくない知識、理解」による偏見や圧力

「そのくらいの○○で」とか持ち出されたら、
その人は完全に味方をしてくれる人ではない率が高まるので気を付けよう。

言い出すのは、あなたの家族かもしれないし、親しい友人かもしれない。
働く組織の偉い人かもしれないし、かかった医者かもしれない。
なんなら「自分は乗り越えたから」などアドバイザー面して言ってくる、
見知らぬ赤の他人であるかもしれない。

プレッシャーを与えて、いいことになるものと、
そうでないものの区別がつかない人には、気を付けよう。
その勘違いは、時として人を殺せる殺傷力がある。
殺してしまってから間違いに気が付いた、では遅いのに、
殺してから気が付く人はとても多い。
なんなら気付かないうえに自分がした事を理解しない、できない場合すらある。
(実際、家族の一部がそうだった。ソースは箱)

それでなくなったものは無知による加害をしてしまった者がいくら謝罪したところで戻ってこないのにな。


補償や補填が効くことはあるけれど、
それが「元通りにする」ことはできない。
壊れた、なくなった物の代わりは、結局「代わり」でしかない。
それを受け入れて生きなければいけない。
……被害者の方が。


・死体蹴りを愉しむ高尚な特殊性癖の持ち主による追加加害

これに遭遇してしまった場合、
「最高に運が無いな君は」
みたいな話にはなってしまうが、まずはその人から逃げ切ってくれ。
回復をはかるのはそれからだ。
安心して休めない時間は、心を摩耗させていく。
それはデバフだ。判断力が落ちる。
安心して休める安全な場所に逃げてから回復しよう。
少なくとも、焦っている時よりは、マシな考えが浮かぶと思う。


怪我が治る。
心が安定する。
前向きに物事を見るためには、体と心、どちらも必要になる。
その状態に行き着くために、生き延びようと、
生きている間はなんとか足掻く。

その努力を、自分自身でフイにしてしまわないように。
他人の無理解で、圧し折られてしまわないように。
傷付いている他人を、自分の行動で追い詰めてしまわないように。

倒れた側だから気付けるもの、ことに気が付いて、
よりよく、生きやすくなる道を探していく、
……そんなことは、本来、誰もしなくていいはずなんだ。
「そんなことをしなくても、はじめから誰でも生きやすい」
その方が当たり前な世界になってほしい。

あなたのひと押しが箱を少し長く生かします。たぶん。 活動が長続きすれば、話せるものも増えるかな。 まあ、お好きなように。強制はしませんよ。