「ゆるす」は「無理強いされて、何かをなかった事にする行為」ではない

そもそも、何かをゆるすという行為は、
何かをされた側が自発的にする行為であるはずだ。
……というのもあるのだが。
強いられて、理由に納得しないまま、
ただ形式的に、儀礼的に「ゆるした」ことにしてしまうと、
それは、時間が経ってもどこかに引っかかり続けるようになる。
そうなると、当人の中ではスッキリしないままになり、
その人を蝕み始めてしまう。

場合によっては、他者への理不尽な攻撃として現れ、
結果として信頼を損なう、などの二次被害も生みかねない。



・ゆるせた「つもり」では、ゆるしきれていない

人は、自分自身が、その出来事に納得して、
腑に落ちて、自分の中でしょうか(消化、消火、昇華など)しきった上で、
やっと対象をゆるせるようになる。
必要な経緯を辿れば、心の中で燻る余地も、後引くわだかまりも残らない。

そうなっていない、ということは、どこかに残ってしまっているから。
無意識にしまい込んでいても、ふとした時に顔を覗かせるなら、
思い出すと腹が立つ、ムカムカする、モヤモヤする……
それは「本当はゆるしきれていない」のだ。


・無理矢理では、納得を伴わない

表面上これで手打ちにしよう、みたいな、
打ち切りたいための「ゆるしの強要」を知っている人もいると思う。

イジメだったり、喧嘩だったり、様々な場面で、
当人の意思と無関係に「帳消し」という事に「させる」行為。
被害も加害もそこまでで止まった「気になる」から、
これで終わりにしろ、という、形式的な幕引き。

加害者がそれをやるのはもってのほか(だけどよくある)だが、
第三者もそれ(ゆるしの強要)をすることがある。

だいたい当事者達より上の立場だったりするが、
その場合も、被害者の意思より、仲裁者の裁量を上にしての強制を伴うので、
被害者がそれで腑に落ちるか、は別の話になる。
だいたいは被害者の「我慢」とセットだ。
問題の根本的な解決はしていない、ということもよくあるし、
その仲裁が、加害者の反省に繋がらなかったなら、
攻撃が激化するリスクさえあるのに、だ。

やられる側は、納得できるだろうか。
「あいつは勝手な裁量で挟まってきたうえに余計なことをした」という、
仲裁者への恨みや憎しみといった物まで植え付けられてしまい、
被害に拍車がかかれば、しょうかにかかる時間も延びる。
一方的に、精算しなければならない負荷が増えることを、
どのくらいの人が、素直に喜べるのだろうか。


・ゆるす基準は、他人と比較できる物ではない

「あの人は許したのに」とか、
「そんなことも許せないなんて心が狭い」とか、
自分以外の存在から心無い言葉が飛んできたとしても、
「今」ゆるせていないものを、
無理に「ゆるしたことにする」必要はない。
「ゆるせなさ」に苛まれている本人以外が、
勝手な事を言っているだけなのだ。

彼等は、感情を肩代わりしてくれるわけでもなければ、
しょうかを手伝い、取り除いてくれるわけでもない。
そういう人達の大体は、
綺麗事を言って「いい人になった気になっているだけ」で、
そうした行動は、本質的にはかなり無責任だ。
具合案を求めても、出てこないなら、そういうことだ。
「そんなのは自分でなんとかするものだ」
みたいな事だけ言って逃げるなら、そういう人だ。


・ひとりでそれを抱え込む必要も、実は、ない

なぜ許せないのか。
どうなっていけばその感情が適切に処理され、
経験値に換算されて、その後の自分の糧にできるのか。

「最終的にそれを判断するのは本人だ」というのはひとつの事実だが、
それができずに苦しんでいる渦中の人を、
はじめからその一言で突き放すのは、優しさではない。
そのタイミングで求められる、適切な厳しさでもない。
それは「無理解」の押し付けである。

ただ、自分の理想を押し付けすぎずに、相手の意思を尊重しながら、
その人のペースに合わせて、無理をさせずに寄り添う、という行為は、
実際にやってみると、思っていたよりも難しいし、精神的に消耗もする。

自分で思うようにできずに途中で音を上げ、
理想通りの展開にならないからと、途中で手のひらを返して、
投げ出して逃げるような人も結構な数がいるくらい。

それだけ大変な状態になっているのだから、
それを全てひとりでやろうとするというのは、
かなりの負荷が自分にかかるものだ、ということは、知っておいていい。
気持ちがスッキリしないことはストレス源になるし、
自分の記憶容量を、それを考えることで無駄に食い潰して、
他のことを処理できる余裕を減らすことになる。

自然に、負荷の分散の手伝いをしてくれる人が、
もしも周りにいるのなら、とても運がいい。
カウンセリングなどで巡り逢えても、運がいい。
その縁は、大事にしてほしい。
「その人の迷惑になるから」と自分で突き放さず、
頼っていい、よりかかってもいい、と言ってくれる人には、
安心して頼り、よりかかろう。
傷を癒やすには、安心できる環境がある方が、ないよりも確実にいい。




理解し、腑に落ち、しょうかして、
自分の中で「その事に関わるもの」からの学びが終わったと判断できた時、
それで、やっと、そこにある悪感情の手放しができる準備が整う。

ただ「そんなことはなかった」とするだけの処理は、
「臭い物に蓋をする」だけの場当たり的な解決でしかない。
楽になれるのは、一時的でしかない。

どちらの道を選ぶかも、まあ、その人次第でしかないが。

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